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2020年09月21日07:04

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鳥取県とは


1617年、池田光政が因幡と伯耆の2国を領有しました。当主の池田光政がこの藩に移ってきたとき、まだ9歳です。当然、藩政を司る力はなく、家臣にゆだねる以外になかったのです。家臣の大半はよそ者ばかりで、老臣たちは江戸に目を向けていました。

大名に恵まれなかったことが、鳥取の不幸の始まりでした。32万石という大藩であったにもかかわらず、地域の活性化が積極的に行われた形跡はありません。明治維新とともに藩は解体して、武士が大量に失業しました。

時を得て、1943年には未曾有の大地震が発生し、市中の建物のほぼ60%が崩壊しました。奈良県に次いで、可住面積が2番目に小さな県です。経済力や所得などの民力統計では、いずれも最低ランクの県です。一毛作農業と牛しかなく、大阪への出稼ぎが多いです。

他府県人には、貧しい国、暗い県というイメージが強い。日照率が低く、湿度も高く、じめじめしています。とりわけ県東部は、「弁当忘れても傘は忘れるな」という格言があるほど雨や雪が多いのです。

山が多く、可住面積が小さいため、これといった産業がありません。二十世紀梨、すいか、砂丘長芋、らっきょうは、勤勉で努力する県民性の汗の結晶といえます。鳥取県を代表する二十世紀梨の栽培も、今や高齢化が急にピッチで進んでいます。

米子市は昔から大阪商人が多く、その影響で商人気風が根強いです。1955年、人形峠でウランが発見されましたが、このあたりはかつて「鉄の道」でした。1784年の『鉄山秘書』によれば、山地一帯から真砂という良質の銀が生産されています。

豊臣秀吉対毛利軍の戦いも、この鉄が原因だったと推測されています。瀬戸の海岸線の大半はハゲ山ばかりです。いうまでもなく製鉄には高熱が必要とされ、その燃料である木炭を供給するため山という山の木が伐採されました。

中国山脈の森林だけでは不足し、瀬戸の島々の木まで切り倒されたのです。製塩も同様に木炭を使うため、現在のようなハゲ山が出現しました。二十世紀梨の原木は、1888年、千葉県松戸の石井佐平方で発見されました。佐平の本家である松戸覚之助がこれを果樹園に移植したところ、立派に実ったといいます。


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