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2020年02月24日06:07

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日本軍の武装解除と復員

終戦とともに、日本が支配していた地域には、日本軍の武装解除、降状調印、捕虜の開放などの業務のために、連合軍が進駐してきました。たとえば、日本本土にはアメリカ軍が、朝鮮半島の北部にはソ連が、南部にはアメリカ軍が、台湾には中国の国民党軍が進駐してきました。

東南アジアにおいては、基本的にはもとの宗主国がそれぞれの植民地を担当するということでありましたが、インドネシアの場合は、オランダ軍の立て直しがまだ十分できておらず、ただちに駆けつける能力がありませんでした。海軍の占領地だった地域にはオーストラリア軍が、また陸軍の占領地だったスマトラ、ジャワにはイギリス軍が進駐しました。

またインドシナは、北緯十七度線以北には中国の蒋介石軍が、以南にはフランス軍が行くことになりましたが、朝鮮半島の場合と同様、担当国が2分されたことが、その後長い間ベトナムを分断国家とすることを運命づけることとなったのです。

東南アジア各地で12万2700人と推定される連合軍側の解放は、おおむね順調に進んだのですが、日本軍の降伏直後に独立を宣言したインドネシアでは困難を極めました。釈放された連合国側の人が、独立に反対する勢力と化すことを恐れたインドネシア側が、これを阻止しようとして、流血騒ぎにあり、中部ジャワなどでは、犠牲者も出たのです。

さらに大変だったのは、日本人の処遇です。東南アジア全域で、75万人いた日本人は軍人も軍属も民間人も、その意思に関係なく、全員帰国を余儀なくされました。日本人は定められた終結地に集められ、ここで復員の機会を持つことになったのです。収容所にいる間、日本人男性の一部は、必要に応じて連合軍のための使役に出されました。

東南アジアから75万人のも日本人をいかにして帰国させるかという問題は、深刻でした。何しろ全世界から600万以上の日本人が祖国へ向けてほぼ一斉に帰国したのです。引き上げは1946年から48年頃までかかり徐々に行われました。乗船に際しては、書類も手記も写真も手紙も持ち帰ることが許されなかったのです。

1979年にハーグの文書館で、乗船直前に取り上げられた日本人の所持品がたくさん保管されたと言います。だが、そのような引き上げを拒否して、現地に残留した人たちが今もなおいます。アエラの1991年12月10日号に細かく人数が記載されています。

その時点でインドネシアに255人、タイに64人、ベトナムに50人フィリピン48人、その他の地域に131人の日本人がなお残留していたということでした。なぜインドネシアがけた違いに多いかというと、日本の敗戦後まもなく独立のための戦いが始まったため、軍事的な知識や技術をもった日本人の助けが必要とされたからです。

連合軍との戦闘を予期していた日本軍が、ともに戦ってくれることを期待して1943年に防衛義勇軍というインドネシア人の軍隊の人材を養成していたのです。この義勇軍の将兵たちは、かつての指導官などに残留して自分たちの戦いに日本人も参加してほしいと熱心に説いて回りました。

日本人の中には、アジア開放の理念を貫徹するために、あるいは、また、どうせ帰っても戦争に負けた日本の未来は暗い、と絶望感に駆られて、その誘いに日本人は応じました。一方、インドネシア側が日本人を拉致して、無理矢理に戦いに参加させるということもありました。スマトラ北端のアチェにいた。

近衛騎兵隊の准尉石井正治氏は、軍の任務でインドネシアの交渉に出かけて行ったところ拉致されその間に引き上げ船が出発してしまったという悲劇的な体験をしています。出発していく輸送船のシルエットを沖合に見て残留を余儀なくされたと言います。

様々な理由がありましたが、ともかくインドネシアだけで約800数十名の日本人が残留したと言います。日本人はいずれも、この地でオランダ軍の目を逃れていくためにはインドネシアの独立軍に身を投じることしかなかったのです。インドネシア軍に参加した日本人はみな手厚く迎えられました。

地域によっては日本人だけの部隊も編成されたほどです。日本人は、周辺のインドネシア人に軍事訓練を施したり、また、インドネシア語に堪能な日本人を軍の中枢部として行動を共にしました。独立戦争で多くの日本人が命を落としたが生き延びた人たちは1950年代初めに一度だけ外交的ルートを通じて帰国の機会が与えられました。

しかし実際その道を選んだ人は少なく、多くが引き続き残留したのです。その頃までにはすべての人がインドネシアの女性と結婚して家庭を持っており帰国するものはいなかったのです。引き続き残留した人たちには、スカルノ大統領の特別の計らいで1963年にインドネシア国籍が与えられたのです。

そのために日本人の多くは、独立の英雄として認定され、死去した場合には英雄墓地へ埋葬されました。その一方、日本政府からは逃亡兵としてみなされ日本政府の恩給の受給資格もはく奪されています。現実には、戦後日系企業がインドネシアに進出した際に長い間逃亡兵というレッテルをつけて回ったのです。

戦犯容疑者は終戦とともに収容所に集結され、共同生活を送っていた仲間の中から連合軍の本部へある日、突然呼び出されて連行されていく者たちがいました。戦犯は、戦争を引き起こしたことに対する責任を問われた裁判は東京で行われました。

だが、それぞれの現地で行われることになり、マニラ法廷やシンガポール法廷などが開催された東南アジア各地の収容所から引き立てられていった人たちは、勝った国々が負けた国の人間を裁くなと言うことの基本的な是非を問われることもなく、この裁判は一方的に勝者の手によって進められました。

つまり、同じような残虐行為を連合軍将兵委が日本人に対して行ったとしてもそれは裁きの提唱にならず、日本人の行為だけが問われたところに、不公平感が残ったのですが、当時の日本人としては異議を唱えられるような状態ではなかったのです。

残虐行為と言っても、労務者問題、慰安婦問題など、東南アジアの住人が犠牲になっているケースがさほど問題にされなかったのです。つまり占領地の住民に対する行為ではなく、連合国側のスパイ容疑者は捕虜に対する行為が主として問題とされたのでした。

したがって戦犯容疑者の中には、連合国側の人間と接点のあった憲兵隊員の監視役などが多かったのです。そのほか、たとえばインドネシアの場合では、インドネシアの独立を煽った者として取り調べられ拷問にかけられ死刑されたのでした。

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