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2019年10月21日05:40

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終戦時の東南アジア各地

1945年8月14日の夜、東南アジア各地の占領地にいた日本人は、翌日正午に重大な発表があるのでラジオの前に集まるように、という指令を受けました。その頃、なんと国内の日本放送協会の放送がそのまま占領地へ中継されていたのです。

つまり、大東亜共栄圏内では、植民地や占領地にいる日本人たちも同じ放送を聴けるように、国内の日本放送協会の番組をそのまま中継して送っていたのです。東亜中継放送と言います。結構本国からの情報の発信には力を入れていたわけです。

いまでこそ、衛星中継というものがあって、海外在住の日本人は日本のテレビまで見られる時代だけれど、戦時中としては随分、進んだことでした。しかも、占領地では日本時間が採用されていたから、日本の正午の放送は、現地時間でも同じく正午に放送されました。

8月15日の正午の放送を実際に聞くことができた日本人が、東南アジア各地でどのくらいいたのかはよくわからないが、遠隅地にいた人たちも、何とか努力してその日はラジオのあるところまで行ったと言います。一台のラジオの前に多くの人たちが集まって一斉に耳を傾けた。

するとそれが、「咲深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状ト二鑑ミ・・・時局ラ収セムト欲シ・・・」で始まり、ポツダム宣言を受け入れて無条件降状することを述べた天皇の「終戦の招書」だったのです。いわゆる玉音放送です。

それに先立つ数か月間、沖縄には連合軍が上陸して激しい地上戦が展開され、日本本状では連合軍による空爆が相次ぎ、最後は広島と長崎に巨大な原子爆弾が投下されて、国民は追い詰められました。

だから日本国内では、敗戦をなんとなく感じ取っていた人も結構いたと思いますが、東南アジアの占領地の中には、ジャワ、スマトラ、マレー半島など、まったく戦闘も空爆もなく平穏だった地域も多く、そういうところにいた人達にとっては、敗戦の知らせは青天の霹靂だったのです。

その頃は、負け戦のことはあまり報道されてなくて、大本営発表のニュースは、日本にとって勇ましい話が多かったから、敗戦などと突然言われても信じられなかったのです。「これは敵の謀略に違いない」と言って信じない人たちもいたのです。情報がたくさん入ってくる地域の場合には、そのような誤解はやがて解けていったのです。

たとえば、インドの収容所に入れられていた日本人の間で、敗戦を信じる「負け組」と、信じない「勝ち組」に分かれて抗争したことまであったのです。それから、ジャングル地帯など、隔離された地域では、その後長い間敗戦を信じない人たちもいました。その一番極端な例が、グアム島に28年間身を隠していた横井庄一さんや、ルソンに30年間潜んでいた小野田寛郎さんのようなケースなのです。

一方、敗戦は信じたけれど、その事実を受け入れようとせず、「我々は無傷だ。このまま降参するなんてとんでもない。これから我々だけでも連合軍と戦おう」と息巻く部隊もありました。そうかと思うと、「いったい自分はこれまで何のために汗水流して……?」と考え、虚脱状態になって、あるいは自殺をした日本人もいたのです。

たとえばバリ島に戦前から住んでいて、インドネシアの民族主義者たちとの付き合いも深かった三浦襄ここに眠ると記された墓標が建てられています。異国で突然聞いた敗戦の知らせ、その後それぞれの人たちがどんな反応を示し、どのような行動をとったかは、そんな風に様々に異なっていたようです。

でも負けたのだから、日本本土とその植民地・占領地は連合軍によって占領され、日本軍は武装解除され、外地にいる日本国籍のものは、すべて強制的に引き上げなければならなくなりました。帰国を喜んだ人もあった一方で、戸惑った人たちも少なからずいました。そしてこれ以後アジア各地で様々な人生が展開されたのです。

日本では「大地の子」という本が出版されテレビドラマ化もされました。一度見て頂ければわかりますがショックで涙が止まりません。あれは、日本人が開拓移民などでたくさん住んでいた中国の東北地方つまり満州で、終戦前後の混乱の時に、親と子が離れ離れになったことから始まる出来事だったのです。

その当時は、実際にそういうことがたくさん起こったのです。終戦の数日前に、ソ連軍が日ソ不可侵条約を一方的に破り宣戦布告して国境を越えて進軍してきたため、そこに住んでいたたくさんの日本人は逃げ惑ったのです。終戦になって、日本軍が降参した後もまだそれは続いたのです。

食糧もないままに、小さな子供や老人を背負って徒歩で逃げたけど、途中、怪我、病気に襲われてみんなひどい状態だったのです。多くの人が命を落とした。「このままでは皆死んでしまう」と思った親たちは、幼い命を守るために我が子を、知り合いの中国人に預けて逃げてこなければならないことも多かったのです。離れ離れにならなければいけない親子もいたのです。戦争はなんと惨いものなのだろうか。

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