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2019年10月14日07:19

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石原莞爾平和思想研究会を続ける訳

私は人一倍癌について知っているつもりでした。だから父が国立癌センタ柏病棟へ入院していただき外科療法の判断をしたり最善の方法を考えたりした。そして最後は緩和病棟入れてもらい人生最後をここで送った。ここでの暮らしは安らかにゆっくりと痛みがなく亡くなってゆくのかと思っていた。

ところが電話があり、突然、私が仕事でどうしても外せない時に入院させてしまった。弟に頼んで病院へ行ってもらい後で聞いたことだが、ゆっくり抹茶を立てて甘いものを食べた後、先生から「この痛み止めを注射するとお話が出来なくなるかも知れません」といわれ、親父は兄貴に何か大切な事を言おうとして「拓躬は来ないのか」と何度も言っていたという。

結局、強いモルヒネを点滴したので死ぬまでまともに話をすることは出来なくなってしまった。悔やんでも悔やみきれない出来事です。父は私に何を告げようとしていたのか。最後の言葉は「石原莞爾を頼む、ありがとう」だった。

また、初代編集長である河野信先生が入院したので会の同志が集まってお見舞いに行った。広い個室で同志たちと語り合った。病気に障るので長居はいけないと帰ろうとしたところ、河野信先生が私以外の方は部屋を出るように言われたので個室には私と河野信先生だけとなった。「近くに来いと言われ」近づくと私の手を強く握り「石原莞爾平和思想研究会を頼むぞ」と言われ涙していた。その何日後に河野先生も亡くなられた。

2代目編集長は戸邊榮一先生でした。休みの日は青年部の同志を連れて戸邊榮一先生のお話を聞きにおじゃましておりました。「これからは若い世代で会を引き継いでもらいたい」と何度もおっしゃっていました。いつも座ってお話しされた椅子に座ったままお亡くなりになったと聞いた時は驚きました。

戸邊榮一先生に代わって3代目の編集長に選任され就任したのは、島田守康編集長だった。編集長に就任されてからは、石原莞爾が残した書物の研究や武田邦太郎先生を積極的にインタビューするなどして、「埋もれた」資料の発掘や証言の開拓に尽力されました。

また、フランスのテレビ局が、当会の渕上千津女史や故佐藤秀一郎副会長を取材し、当会会員もそのために真摯に尽力したにも関わらず、事前の約束の、放送されたDVDの郵送が当会にされないばかりか、EU全土に放映されたその内容が誤解される内容だったことを知り、義憤に駆られフランス大使館に問い合わせるなど、石原莞爾と当会の名誉のために最大限の努力と奮闘をいたしました。

闘病生活を送っていたにも関わらず、最後の力が尽きるまで編集長としての職務を全うされましたことは、会長として、感動と感謝の念に堪えません。そんな最後の日々が続く中、亡くなる5日前に、私のスマホに3回も「総会まで体が持ちそうにないので、後の事をお願いしたい」という電話がありました。

島田編集長の声や安藤徳次郎先生と手賀沼のボートの上へ石原莞爾将軍を語った想い出・武田邦太郎先生の自宅で「あんたがやりなさい」と叩きこまれた石原莞爾将軍への志などが大病した私の脳裏に今も蘇ります。その先生方の不屈の精神を引き継がなくてはならない思いはここにあるのです。

いつの時代にも、理不尽なことを言う人がいる。父への尊敬の念、同志たちとの友情。不合理への憤り、筋を曲げないことの難しさ。伝えられなかった思い。石原莞爾平和思想研究会は、これからも先人たちの屍を涙して乗り越えながら精進して行くことを誓い、長い間お世話になった先生方に心から哀悼と感謝の意を捧げます。
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