読みかけの渡辺京二『アーリイモダンの夢』(弦書房、2008)に日本史学者・網野善彦への批判がある(2002年発表「徳川期理解の前提」中の一節)。引いてみると、
<戦後の左翼史学は散々馬鹿の限りを尽して来たのだから、彼らの最近の言説になし崩し的な方向修正の気分が出て来ているのは当然の成りゆきといっていい。しかし、現代フランス思想や文化人類学的視点などを輸入しながら行われる彼らの最近の言説は、パラダイム転換の花火を打ち上げながら、依然として古典左翼的な骨格に貫かれている。
網野善彦の言説はその典型である。(中略)この人は史学の最新の動向をよくフォローするが、根本的には自説を崩壊せしめるはずの他者の説を、まるで自説を補強するもののように扱ってゆく手つきにはおそれいらざるをえない。
そもそもは網野が、ヨーロッパ中世におけるアジールを、古ゲルマン以来脈々と流れる人民の原初的自由などと解釈するのがナンセンスなのだ。(中略)アジールには人殺しだって何だって逃げ込んだのである。(中略)
網野の書くものには人民的な自由・平等といったスローガンが溢れ返っているが、そのいずれもが極めて近代的に解釈された自由であり平等であるに過ぎない。…>
網野善彦はここ20〜30年で最も多数の読者を獲得した日本史学者だろう。しかし、渡辺氏にかかれば形無しの観がある。若かりし頃の吉本隆明の批評文を思い出した。
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