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2019年10月22日03:27

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映画日記 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』

かつて『ウェスタン』(1969年)というタイトルで上映されたときに見ている。
中学生か高校生の頃だ。
このときは悪い印象しかなかった。

悪印象だった理由は次の3つ。
その1・・・・だらだらとして冗長
その2・・・・話がよく分からない
その3・・・・どうして、ヘンリー・フォンダが悪役やってんだ?

3つのうち、その2の「話がよく分からない」は、いまおもうと中3か高1のボンクラでは無理もないことなので、措いておく。
問題は「その1」と「その3」だ。
再見して、「冗長」と「ヘンリー・フォンダの悪役」こそが、本作の魅力であった。


2019年10月21日(月)

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』(1968年製作・オリジナル版)
監督:セルジオ・レオーネ
矢場町・センチュリーシネマ

大西部のとある町に、目いっぱいめかし込んだ女がひとり、汽車から降りてきた。
めかし込んではいるが、シロウトでないことは誰の目にもあきらかだ。
彼女はニュー・オリンズで娼婦をしてたジル(クラウディア・カルディナーレ)だった。
ジルは、この地に住む開拓者の中年男・ブレッドから再婚相手として求婚されていた。
そして、この日が挙式だった。
彼女はブレッドと、彼のふたりの息子と娘のために、よき妻として、よき母として、これまでの人生をやりなおすつもりだった。
夢に胸を膨らませてジルがブレッドの開拓小屋にたどり着く。
しかし、そこで待っていたのは、冷たくなった4人の亡骸だった。
噂では、シャイアン(ジェイソン・ロバーズ)と名乗る悪党が率いる強盗団の仕業だという。
ジルは、夫と子どもたち、とりわけまだ幼い次男の亡骸に復讐を誓う。

じつは、ジルの夢を打ち砕いたのはシャイアンでなく、フランク(ヘンリー・フォンダ)という冷酷な悪党だった。
幼い次男に、ためらうことなく銃口を向けたのもフランクだ。
さらに、彼は殺人現場に小細工をほどこし、シャイアンに罪を被せた。
フランクは鉄道会社の経営者・モートンの手先だった。
彼はモートンの汚れ仕事をこなしながら、成り上がろうとしていた。

いっぽう、濡れ衣を着せられたシャイアンは怒り心頭。
なぜなら、悪党稼業のシャイアンだったが、これまで女性と子どもに銃口を向けたことは一度もなかった。
悪党なりのプライドだ。

そして、もうひとり。
フランクの行方を追う、謎のハーモニカ男(チャールズ・ブロンソン)がいた。

乾ききった広大な西部の大地を舞台に、宿命の糸にたぐり寄せられた、ひとりの女と3人の男たちの物語がはじまる・・・・

と、長い映画でなので、あらすじも長くなってしまった。
かいつまんで言うと、“復讐譚”と“女の意地”と“鉄道の利権をめぐるいざこざ”が絡み合う重厚なストーリーだ。

話が重厚なので、長い映画になったのかもしれないが、それ以上に登場人物たちをクローズアップで撮りまくったことが、長くなった要因だ。
とりわけ、冒頭でジャック・イーラムのやぶにらみの小汚い顔がどアップになり、顔にたかるハエを追い払おうと、口をすぼめて息をフウフウと吹きかけるシーンをえんえんと撮っているのには唖然となった。
これだけで、アンディ・ウォーホールが撮った短編の実験映画といっても通じる。
このくどい撮り方こそが、見どころだ。
決して冗長ではない。
ようするに、ぎとぎとしたミートソースがたっぷりとのった大盛りスパゲッティなのだ。
これが嫌なら,蕎麦屋へ行け。
キーコ、キーコと、えんえんと聞こえてくる油の切れた風車の音がなかったら、どんなに味気のない映画になったことか。

そしてヘンリー・フォンダだ。
極悪非道冷酷無慈悲な悪役ぶりが見事。
『狙撃』(1968年)で冷酷な殺し屋を演じた森雅之と双璧。
ふたりとも、敵役なのに妙な色気がある。
大人になったいまになって見ると、彼が演じたフランクは、時代の流れに乗りそこなった男にみえた。
いつまでも銃の時代じゃない。これからは金(カネ)と頭の時代がやってくる。
そんな時流を感じとり、いつかはパリッとした背広姿の実業家にでもなろうとしていたのだろうが、その夢はもう少しのところで、掴もうとした手からするりと逃げていった。
結局は銃の呪縛から逃れることができなかった哀れな男だ。

時代に乗りそこなったのは、ジェイソン・ロバーツが演じたシャイアンも同じ。
ジェイソン・ロバーツといえば、サム・ペキンパー監督の『砂漠の流れ者』(1970年)で、馬にかわって登場した自動車にひかれて命を落とすケーブル・ホーグ役を思いだす。
本作のジェイソン・ロバーツは自動車でなく、汽車ぽっぽ野郎の手によって命を落とすことになる。
自動車と鉄道、いずれも馬が駆けめぐる西部劇の古い時代から、新時代に移るシンボルだ。

悪い奴⇒ヘンリー・フォンダ、汚い奴⇒ジェイソン・ロバーツときて、チャールズ・ブロンソンは良い奴だった。
チャールズ・ブロンソンについては、「カッコいい」のひと言につきる。
特に、クライマックスのヘンリー・フォンダとの決闘シーンで、ジャーンという音楽とともに、彼のアップになった横顔が画面に登場するカットには、しびれたぜ。
馬に乗った彼が、活気あふれる鉄道や駅の建設現場を背にして、静かに消えてゆく。

そんな男たちを尻目に、大地に生きることを決意したラストシーンのクラウディア・カルディナーレが、まるで『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラだった。
彼女が演じたジルは材木置き場のようなこの土地に、駅をつくり、サロンを作り、しだいに人が集まり、銀行や教会が建つような町へと、発展させていくに違いない。
やがて20世紀を迎え、発展した町並みを、孫たちに囲まれたジルが感慨をもってながめることになるのだろう。
しかし、それはまた別のお話だ。

ジルが作る町、つまり20世紀の繁栄したアメリカを見ることなく、歴史から消えていった無名の男たちへの挽歌、それが『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』だった。

大画面いっぱいに、エンニオ・モリコーネの壮麗なメロディが流れた。
まるで、歌舞伎かオペラだ!
といっても、私は生まれてこのかた歌舞伎やオペラを一度も見たことがないし、これからも見ることはないとおもう。
しかし、もし歌舞伎やオペラを見る機会があったなら、きっとこうつぶやくはずだ。

なんだ、まるでセルジオ・レオーネの『ワンス・アポン〜』じゃないか!!

傑作。


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