mixiユーザー(id:6785066)

2022年01月16日08:19

23 view

18970222 NO5043 還宮始末 (*国王が露館から王宮へ帰還) その一

18970222 NO5043 還宮始末 (*国王が露館から王宮へ帰還)
한국사데이터베이스 (history.go.kr)
012_0030_0040 駐韓日本公使館記録 12巻 参.. 本省往復報告 (4) 還宮始末
文書題目 (4) 還宮始末
文書番号 報告第二二号,発 第参.五号(京城領事),発 第参.六号(仁川領事),発 第参.七号(釜山領事),発 第参.八号(元山領事)
発信日 明治参.十年二月二十二日 ( 1897年 02月 22日 )
発信者 京城 加藤 臨時代理公使
受信者 大隈 外務大臣

(4) 還宮始末
報告第二二号,発 第参.五号(京城領事),発 第参.六号(仁川領事),発 第参.七号(釜山領事),発 第参.八号(元山領事)

一. 還宮上奏の計画はその初め慶尚道の儒生によって唱道され、参南地方(*忠清道・全羅道・慶尚道の参道)を通じて伏闕(ふっけつ *国王の居処の前に伏すこと)して哀願しようと企図したのだが、一早く慶尚道一円がまとまり去月末故・林最洙の従弟である林志洙ら数名が率先して露国公使館前に正座して請願することがあり、続いて声焔がたちまち盛り上がり、間もなく儒学・趙性薫(チョソンフン)などが万人上疏(国王に書状を差し出すこと)の捧呈となった。その文にはこうあった。

「幼学(*官位を持たない儒生)・趙性薫などが伏して省みるに、『洪範九疇』に『皇はその有極に建つ』とあると聞いている。また伝にはこうある、『建物に脊(せぼね)があるように、北辰(北極星)は決まった所にいて衆星がこの星をめぐっている」、これが「帝王が天に応じて天子の位をたて、それによって広い国土を統率する」という国家の方策である。
ああ、昨年(1896年)八月二十日の事(*何を指すか不明)、誠にこれは未曾有の大変事であった。そして彼等(*総理・金弘集ら)はいよいよ甚だしく、十一月十五日(*一八九五年新暦十二月参十日)に至ってまた再び昔の制度を脅かし、断髮せよとの議論を持ち出した。
あの弘集(*金弘集)・吉濬(*兪吉濬)たちは遠慮することはなく我慢するところもない。これが神・人の共に憤怒する所である。
今祖宗のお助けにより、陛下は果敢に決断を下され、経権でもって裁決され、露国公使館から出御されて速かに天誅を行なわれ、再び朝廷の紀綱を清らかになさらなくてはならないでしょう。これが聖人の連権であるが、継承して法としなければならないことがあきらかであるのだが、どうして春が過ぎ去り、秋が過ぎたのに、依然として還御を後回しになさるのか。
挙国の臣民内而憂慮し外而疑懼し止届を知るなし。政令是れに由つて行われず。礼儀之に依つて益紊たる聖人の威権施すに所なく、日に復た一日、駸々然として振わず。未た知らず、国家将さに何の地に税駕せんとするや。懍然として危懼せざるべけんや。

ましてや冷たい家屋、冷え冷えとしたオンドルで、玉体が安らかでないでしょうに、また攝養に妨げがありましょうに、風雪がすだれを通して入り込んで来た時は石炭で寒気を防ぐだろうに、必ず精神に損傷を受けであろうし、部屋の天井は中央が高く四方は低く、仰ぎ見れば薄暗いだろうに、心気が落ち着かなくなりやすいでしょう。これが還御なさらなければならない理由です。
いわんや、万国で見聞きしている皆が言うであろう、「朝鮮に一人の義士がいて国のために忠誠を尽くし、君父を一日も早く宮室へ帰り平安に暮らせるように出来ないのか」とことなのだが、これがまことに侮られる一つの理由です。

また露国の立場から言えば、彼らは我が国を保護し我が国を助けてくれるという表向きの理由が度を越している。万一力を尽くして助けてやろうとすれば、今になって上は天心に順い、下は民情を鎮めなければならないであろうに、還御の一事より急がなければならないことがあるだろうか。誰かただ一人の人間でも、国中の民心を公使に説明し、露国公使に民心がこのような状況であることを理解させるなら、それが還御を求める事をどうして少しでも遅らせることができるでしょうか。
伏して乞うことは、国王に置かれては直ちに頼もしく有能な臣下に命じて、露国公使に請い保護の兵を得、速やかに慶運宮に還御し、上は黙々と補祐する祖宗を慰め、下は百姓たちの危惧の心を安定させられ、また王太子殿下に朝晩殯殿に真心を奉げることが出来るようなされたい。そのようになれば天にいらっしゃる大行王后の英霊はあの世で喜ばれるであろうし、君主の地位は正中となり北極星がその位置を得るように美しい世になるのではないか。臣らは卑賎の身分でありながら敢えて地位から外れた妄言をしたのだが、極めて僣越であり、罪を裂けようとするところは無い。しかしながらこのままでは父母が平安でおられる事ができないので、その子である者が愚かで不肖であっても号泣しつつ、国王が還御なさることを乞わずにおられましょうか。
伏して乞うことは、天地が父母其のような御心で私たちの僭越さをお許しになり、人が卑賎だと言って言葉をお捨てにならなければ、宗社のために非常に幸せなことであり、臣民のために非常に幸せなことであるでしょう。臣たちがまことに切実な心に耐えることができず、謹んで死をも顧みず申し上げます。」

陛下は本月参日、次の批旨を下し「留意して置くだろう」と仰せ出された。その文に曰く、

「批旨する。上疏文を全てよく理解した。昨秋の逆変はとうてい言及出来るものではない。今お前たちの言葉がまことにお前たちの真心から出たものであり、まことに褒め称えるべきと思う。必ず留意しておくであろう。」

しかし趙(*趙性薫)などの一団はこの批旨で満足せず、あるいは有力の縉紳(*官僚)に訴え、あるいは商民に向って大いに誘導するのであった。こうしてはじめて儒生、商民、縉紳各派の連合請願となり、九日においてその集会所を南別宮に定め、また趙秉式は縉紳派の筆頭者として去る九日次の上奏を捧呈した。

「伏して思うに、日月は流れ年頭も既に過ぎゆきました。伏して思うに、陛下の切実な悲しみと、東宮の哀慕の情は初めとおなじで、臣民の痛恨も大小が同じようです。そして臣たちは文・蔭・武の班列で恥ずかしさを顧みず地位を満たしつつ、君・師・父一事の義理を少しも理解できないでおり、常につまらない憂いばかりを懐き、ひまわりのように願う真心だけが切実です。今国運が危うく、時運が目まぐるしく、正殿には久しく国王の南面の座を空しくし、全ての臣下たちはあたふたと隣国の公使館に臨時に北辰(*北極星)の仮住まいを設けて朝野が心配していぶかしがっております。
ああ、乙未八月(*閔妃暗殺)の恨みをどのように言い表すことができ、国の怨讐をまだ報いることができず、あの蒼天と人心がまだ安定しておらず、建白するものが幾人になったのでしょうか。況んや又西隣の国の公使館に移御なさり宝暦(*国王の年齢)は再び新しくなりました。
部屋の中での準備はこの上なく奢侈で華麗だというが、石炭の煙が玉体の健康を害するでありましょう。ロシア人たちは厚誼で保護するが、還御しようが、還御しまいが同じことだと言っているようです。しかし朝廷の臣僚たちは皆が聖意をお変えすることを切実に望んでいます。最近縉紳や士大夫たちが前後で訴えてやまない ことが一二度だけではなく、還御なさるという批答(上訴に対する答え)はまだ遠いようです。.
知らなかったのですが、陛下はあるいはこだわっておられることがあっって勇断を遅らせておられるのですか。あるいは、全ての事を慎重に注意されてまだお心を決定することが出来ないでいらっしゃるのか。そうでないならば、今まさに正初(*年の初め)が再び帰ってきて万物が新しく生まれる時を迎え、天の運行と祭器を同じくし、遅かれ早かれ還御なさることが聖人の天時に順応する義理であるのでしょう。その後億万年、宗廟と社稷は危機を脱して安全になり、参千里の生霊はまた泣いたことを転じて笑うようになるでしょう。
今全国八道の民衆たちは足を包み、氷を履み、すべての商人たちは心を尽くし、その子が父母のところへ駆けつけるように切に願うのです。
だから陛下におかれてはまた古い習慣に従われるばかりで、許諾することを後回しにしようとなさるが、あの切なる誠意をどうなさるのか、あの人民をどうなさるのか。
私どもがもし特旨を受けて仰ぎつつ還御なさる威厳のあるお姿を見ることができるならば、将来知らぬ間に手がぶらぶらさせ足を踊らせて喜ぶであろうし家ごとに皆が慶賀し祝うだろうし、また最後まで聖心を変えようとなさらないなら私どもはただ心臓を割いて血を注ぎ、共に叫び頭をぶつけて出て行き、引きさがらず死があるだけだということをお分かりいただけないのか。
伏して願うことは、陛下におかれては万の百姓の父母であられる事を深く認識され、全ての国の臣子たちの心を思われ、全ての諫言に従っていただき、永久に還御なさることで人々の沸き立つ真心を行き渡らせられ、道が太平と共にあり、喜びを教授することを臣たちは仰ぎつつ望みます。畏れ多くも切実な心で一杯であります。」

この上疏文を受けて陛下は次の詔勅を下された。

「露公使館へ移御して年をこしたのだが、まだ還御することができないことはまことに止むを得ないことである。大小の臣僚たちが懸念し念慮することがこのようにながくなっただけでなく、朕もまた望むところではない。しかしこのごろ冷たい天候が続いて工事が停止し、殿宇の大勢がまだ整備されておらず、今はまだ還御を急ぐことができないのだ。
前後に朝廷の臣僚たちが奏請したことが一度二度に止まらず、近頃にはまた多くの人士が宮門で訴えることがあったのだが、これは忠君愛国の誠意から出たことだとは言え、実に朕の心を知らないことなのだ。もしも還宮せよと言うのならどうしてそなたたちが乞うことを待とうとしたか。ましてやこれに基づいて根も葉もないうわさを言いふらし、疑う必要がないことを疑うよう言いふらすなど更に間違っている。すでに承旨をさせ退去せよと曉諭した。
いまやまもなく春に迎えるであろうが、宮殿の工事ももう少しで完工するであろうし、還宮はまもなくであろうからまたなにを疑い念慮することがあろうか。ここに特別に詔勅を下だしその事由を明らかにし、さらに宮府で朕の意志を大路に掲げさせるのでお前たち臣民はみなよく理解せよ。」


これが明らかに宮殿修理を待ち早晩還宮するだろうとの意志を表明したもので、一時落ち着きを失っていた民心を鎮静させようとするものであるらしい。

ところがこの批答(*上訴に対する答え)は彼らを解散させことには何の効果もなく、皆が大声で述べたことは、
「我が国の古例に、上疏を挙げてその訴えが受け入れられなかったならば鍾路(京城の中央にある市街)付近の商店たちは門を閉じ休業し、それでも受け入れられなければ南大門の外に出、それでも受け入れられなければ、龍山(仁川へ流れ下るところの河口)へ下り、ついに河を渡り自ら罪を自認して陛下の下命を待ったのだが、今回も前例にしたがってするべきだ。」

とまで叫んで南別宮の背後にある官立小学校の間に「請還御疏庁」という看板を建てさらに活発に運動を勧めた。しかしこの高官たちの上疏にたいしては翌日十参日に次のような批旨を下した。

「上訴を見て全てよく分かった。行く先を移すことは止むを得ない事情のためであったが、まだ即時還宮出来ないことが、どうして考えがなくてそのようなことになろうか。朕は卿たちが願うことを待たずに、今まさに工事が竣工することを待っているのだが、卿たちはこれをよく理解し二度と煩わしいことをしないように。」(つづく)


0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する