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2019年10月22日10:00

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18950710 NO3125  朴泳孝事件収拾策についての指示とこれに関する回報  4

18950710 NO3125  朴泳孝事件収拾策についての指示とこれに関する回報  4
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駐韓日本公使館記録 7巻 五. 機密通常和文電報往復 一•二 第1冊 (136) [朴泳孝事件収拾策についての指示とこれに関する回報] 4) [朴泳孝事件収拾策についての指示とこれに関する回報] 4
文書題目 4) [朴泳孝事件収拾策についての指示とこれに関する回報] 4
文書番号
発信日 同 十日午前六時 発 ( 1895年 07月 10日 )
発信者 代理公使 杉村 (*杉村濬 在京城日本公使館の一等書記官)
受信者 外務大臣代理 西園寺 (*西園寺公望 外務大臣、文部大臣兼任)

4) [朴泳孝事件収拾策についての指示とこれに関する回報] 4
同 十日午前六時 発
----------------------------------------------------------------------杉村 代理公使
西園寺 外務大臣代理(*宛)

昨九日発井上公使の電報二通を受け取った。私ははじめから朴泳孝(パギョンヒョ)派が激手段を取ることを戒め非常に苦心したのであった。顧問官の中にも今日となっては朴派を擁護する者もいない。ただし朴氏逃亡の日、民間に激昂の模様があったがこれをも防ぎとどめた。したがって御安心頂きたい。
○朴の一派は李圭完(イギュワン)、申応熙(シンウンヒ)は逃亡し、その他は依然出勤し、浅山恒屋も同様に出勤している。徐光範(ソグァンボム)もまた無事出勤している。
○佐々木留蔵は報知新聞の通信員・尾崎行雄の子分と自称し、性格は率直ではない。日本人でこれと交わるものはいない。同人は朴泳孝を通じて韓廷に雇われようとしたが、厳しく退けられたため朴泳孝を深く恨んでいるという。
○金宏集(キムホンジプ)入閣の件は内々尽力しているが、朴定陽(パクチョンヤン)が腰を据えて動かない。国王もまた彼を動かすことを好まないようなので困っている。




*尾崎行雄 「1898年隈板内閣の文部大臣となったが,帝国教育会でのいわゆる共和演説により,同年辞職。 1900年伊藤博文の立憲政友会結成には創立委員として参加した。」





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