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2021年02月27日03:53

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ボタンの掛けちがい

前回続き。
欽ちゃんは自身の冠番組で大勢の人材を芸能界へ送り出した。
その活動が一段落した2005年には社会人硬式野球チームを創設している。
夢に向かって躍動する若者を後押しするのが好きなのだろう。

いわゆる欽ちゃんプロデュースだ。
「ハイスクールララバイ」「めだかの兄弟」「もしも明日が」等々。
無垢な10代の少年少女をメインに据え、芸達者な面々が脇をしっかりと支える。
曲の完成度と相まって大ヒットとなった。

そして欽ちゃんは「ちょうどよい下手さ」と慎吾ちゃんをデビューさせる。
欽ちゃんバンドで作った歌詞に、吉田拓郎氏を担ぎ出すとはさすがの力量。
デビュー曲「僕 笑っちゃいます」は、コミカルなステップと拓郎節の相乗効果でスマッシュヒットとなる。
コニタンの重量感あふれる援護射撃も忘れてはならない。
続いてリリースした「泣いちっちマイハート」「そこの彼女」は、めちゃくちゃアイドル路線だ。

しかし風見慎吾は、良い意味で擦れていた。
彼は自らの意志で劇男一世風靡(霊心会)へ加入を申し出た行動派。
欽ちゃんの目に留まる以前から、路上でのパフォーマンスを行っていた。
しかも広島県随一の進学校の出身。
入学後は勉強についていけず(本人談)と謙遜する割に成蹊大学へストレートで入学する秀才なのだ。
「週刊欽曜日」の出演し始めが19歳。
「僕 笑っちゃいます」をリリースしたのが20歳。
当時のお茶の間は、慎吾ちゃんの童顔とコントで見せる可愛さに騙されていたけれど、冷静に自分を見つめる目を持ち合わせていたのではないか。

アイドルは10代が常識だった時代。
20歳すぎの風見慎吾のジレンマたるや相当なものだったはず。
だからこそ自分がやりたいことを明確に描き行動した。
ニューヨークへ飛び独学でブレイクダンスを習得。
簡潔に書けば一行だけど、簡単に出来ることではないよね。
ものすごい苦労と苦行が伴ったはず。
それにしても「時計をとめて」を歌わせようとした欽ちゃん(それはミスマッチ!)
ほぼ決まりかけていたのに、即行で曲を差し替えてくれた柔軟性に感謝します。
しかし慎吾ちゃん、よく「やりたいことがある」と言えたね。
吉本の師弟関係だったら問答無用で破門だよ(笑)
たった1日であの名曲が出来上がったのは偶然というより奇跡に近い。

ただ欽ちゃんには少々の憾みもある。
なぜ慎吾ちゃんの歌のレッスンを止めさせたのか。
以前の日記で書いたが、慎吾ちゃんの声質は天性の輝きがあったのだ。
音程の不安定さはレッスンで改善されるのに。
慎吾ちゃんは師と仰ぐ人の指示を遵守してしまった。
カリスマ監督と高校球児の関係性がここでは悪い方へ出たのだ。

欽ちゃんは無垢を好んだ。
歌のレッスンなどして変に小細工されたくなかったのだろう。
欽ちゃんが欲したのは、自身の番組の大団円。幸せな空間の仕上げとなる歌だったのだ。

あ、長くなってしまった…
どうしてこうも文章を書くことが下手なのか。
「涙のtake a chance」の進化は次回へ。

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