仏教では死を”人生の一大事”と言っている。
”浮世のことは死によって終わる一時的なこと。死後の世界こそ考えなければいけない”
しかし「死後が大事」と言われても、どうすれば良いあの世に逝けるのか分からない。
そこで僧侶が2つの派閥に分かれ、あの世への逝き方をレクチャーした。
自力救済(自力本願)と他力救済(他力本願)。
自力救済とは”道徳的に正しいことを積み重ねれば、死後、良い世界へ逝ける”という教え。
他力救済とは”神通力を持つ仏にすがることで、死後、良い世界に逝ける”という教え。
前者の自力救済論は、今では「魂のレベル論」などと言われ信奉者はいるが、昔も今もメジャーな教えにはなっていない。
多くの人は他力救済論を信奉する。
”神仏を拝めば、拝んだ神仏が神通力で良い世に逝かせてくれる論” である。
しかし、その肝心要の神仏はいくら探してもみつからない。
そこで他力救済をうたう僧侶は、すがる対象を設定した。
それが架空の人物 ”阿弥陀仏” と、自画自賛に終始する中身のない経典 ”法華経” だ。
日本人の大部分は、このどちらかを拝むことで良い世に逝く信仰を持っている。
この教えは、中身を知れば、むなしくなるだけ。
だから中身を考えないことで、信仰心を保つ道が選択された。
神は、神を知ることなく、むなしく死ぬだけの人間に対し、ご自身を表そうと考えた。
そこでユダヤ人を選び、彼らにご自身を表し、2冊の書物にまとめさせた。
日本にも、ようやく実在の救世主のニュースがもたらされたが、人々はイワシの頭(阿弥陀仏、法華経)を拝むことをやめない。
「だってあれはヨーロッパの神様であり、我々の神様ではないから」
神にヨーロッパも日本もない。神は一つである。
多神教から一神教へ改宗する人は多いが、一神教から多神教へ改宗する人はあまりいない。
それは、一神教を知れば、多神教で拝んでいる神が、イワシの頭(物)か悪霊の類であることが分かってしまうからだ。
イワシの頭と悪霊を「我が国の神」と主張し、神が日本人を選ばずユダヤ人を選んだからといって、神を自分とは無関係の存在としてしまう日本人。
それに加え、欧米から無神論が入って来れば、それを信奉し「神も仏もいない。死ねば無。あるのは金だけだ」と言う。
日本人は救いから遠い人たちだ。
私の母は、毎日せっせとイワシの頭を拝み、僧侶のありがたい教えに耳を傾ける。
確かにその教えは立派だろう。しかし人間の救いとは関係ない。
私の父は、無神論者であり、死を考えないよう、お酒を飲んで日々を過ごす。
「宗教は金儲けの手段だ」と言い、道徳にケチをつけ問題のある行動をする。
今は宗教多元論の時代と言われるが、それは政治的な話。宗教に多元も一元も無い。
イワシの頭か実在の救世主かの2つに1つ。
イワシの頭を「日本の物だから」と言って大切にし、実在の救世主を「ガイジンだ」と言って拒絶するのが日本人である。
イワシの頭を拝む人たちがいた方が、文化的な多様性があってよいかもしれない。
しかし、拝む人たちにしてみたら、むなしいだけだ。
神を信じず、むなしさをアルコールでまぎらわせ、猜疑心から道徳にケチをつけ悪事をなす。信仰以前に人として問題がある。
家族であっても宗教の話はできない。
イワシの頭にすがっているだけに、それを拒絶されるとキチガイみたいに怒りだすか。
違う宗教を信じていることが理解できず、こちらを変人と見るか。
そのどちらかだからだ。
私の家族も、いつか、すがるべき存在が、そんなイワシの頭やアルコールではなく、実在の人物であることを知ることを願わずにはいられない。
日本人の年配者はキリスト教に改宗するとこんなことを言うらしい。
「私たちが拝んでいた阿弥陀様とは、実はイエス様のことだったんだね」
「文化だ」とか「風習だ」とか言いだす文化人より、彼らの方が的を得ている。
宗教は文化や風習ではない。真実の救世主を信じることだからだ。
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