今の日本人は現世のことしか考えないように教えられているので、”死んだら無になる”と頭で信じる一方、無になるのは嫌なので、死ぬことは考えないように生きている。
では”死ぬことを考えなければ幸福になれるか?”と言えば、そうとも言えない。
この世界は競争社会であり ”勝った者にしか幸福は与えられない” が、”勝つか負けるか” は運と才能で決まってしまう。
多くの人は、この社会でもがき苦しみ、お金で手に入るひと時の幸福にすがる。
しかし、これらには中毒性があり、いくら得てもきりがないだけでなく、これらにすがればすがるほど人生はさらに過酷なものとなる。
多くの人がこのサイクルから逃れられないため、政府は国民に自由選択権を与えても、奴隷は奴隷の地位にとどまることで社会が維持される。
”お金を握り世の中の真実を知った者だけが、このサイクルから飛び出すことができる”
これがロバート・キヨサキ氏が著書「金持ち父さん」で書いたラットレースの話だ。
私もこの話を「金持ち父さん」から知識として得ていた。
しかし、風俗中毒に陥り、結婚できない恐怖症に襲われ、頭では知っていても、ラットレースの中のネズミとして生きてきた。
私がこのラットレースを本当に理解したのは、投資で儲けお金を手に入れたからであり、札束で両ほほをたたかれ、はじめて自分が中毒に犯されていることが分かった。
この世は悲しいものであり、
”お金がないから搾取されるのだが、お金がないから世の中の真実が見えない”。
聖書を読めば、世の中の真実の姿を知識として得ることはできる。
しかし、いくら聖書を100回読んでも、本当に知ったことにはならない。
1億円の現金が自分の銀行口座に振り込まれれば、目は開かれ、初めて聖書から得た知識が頭の中で本物の知恵となる。
”お金が先なのだが、お金が得られない。正しい信仰はお金がなければ得られない。”
それが資本主義社会の残酷な現実だ。
100万円貯金できれば、世の中の見方が変わる。
1,000万円貯金できれば、人生を変えられる。
しかし、決断しなければ何も変わらない。
”もう少しお金があれば安心” と貯蓄に励めば、将来、高級な老人ホームへ入れるが、ラットレースのネズミとしての人生には変わりがない。
こんなことは誰でも知っているだろう。
でも、行動できる人は少数であり、だからこそ、政府が身分制を敷き個人の選択を制限しなくても、社会が成り立っている。
知識を得るのは簡単だが、本当に知るためにはお金がいる。
そして決断するには信仰と勇気がいる。
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