20世紀を代表する小説家、ジョージ・オーウェルは、20代の頃、ビルマ(現ミャンマー)にて警察官の仕事をしていた。
その頃「ゾウが暴れて人々を襲っているから助けて欲しい」という通報があり、交番に詰めていたジョージ・オーウェルは出動することになった。
しかし現地に行ってみると、ゾウはおとなしく人に危害を加える様子もない。
ただ「ゾウが人を襲っている」といううわさがうわさを呼び、ものすごい数の人だかりが、ゾウとジョージ・オーウェルを囲み、警察官であるジョージ・オーウェルがどのような行動をとるのか、彼の一挙手一投足を見守っている。
若き日のジョージ・オーウェルは悩む。
ゾウは明らかに安全だ。
でももし私がこのゾウを殺さなかったなら、警察官としての私の威厳が保てない。
群衆は警察官が怖いから頼るし、また怖いから従う。
「この若造の警察官は決断できない臆病者。怖くない」
そうなれば、群衆は私の言うことを聞かなくなり私を襲ってくるだろう。
ジョージ・オーウェルは、腰のベルトから拳銃を引き抜くと、このあわれなゾウを一撃で葬り去った。
わずか数分の出来事だったが、ジョージ・オーウェルにとっては終生忘れられない出来事となり、その後、彼は警察官を辞めイギリスに帰った。
日本では「強い人は自分の弱さを認めることができる人。弱い人は虚勢を張っている人」という考えが人気だが、私はその考えは間違っていると思う。
誰が言った言葉か忘れてしまったが、先日、こんな言葉を聞いた。
世の中には、本当に強い人はいない。
みな弱い人であり、私もあなたも変わらない。
強いと思われている人は、自分の弱さを見せず虚勢を張ることで、他人からは強い人と思われている人である。
弱い人は、世の中には強い人がいると信じ、弱い自分を卑下している人である。
ジョージ・オーウェルは自分が弱い人間であることを知っていた。
でもまわりの人は自分を強い人間だと勘違いしていることも知っている。
「ゾウを殺す」というパフォーマンス(虚勢)を張ることで、相手の心の中にある強い人像を保ち、それによって自分の安全を図る。
もし日本人が推奨するように弱さをさらけだしたなら、自分自身が危険に陥ってしまう。
日本人は綺麗事が大好きな民族だが、それを信じたら確実に不幸になる。
私もかつては”世の中には強い人がいる”と信じ、そうではない自分を卑下する弱者であり、”弱さをさらけだすのは、ありのままの自分を知ってもらうことだ”と考えていた。
結果、他人からなめられ「なんでみんなはあんなに強いのに自分だけダメなんだろう」と悩むこととなった。
幸福は、その人が他人から強いと思われていることから来る。
でも本当に強い人などいない。
ただ随所随所にパフォーマンスを設けることで、強い人だと信じ込ませることができる。
それは大きければ大きいほどよく、また困難がなければないほどよい。
おとなしいゾウめがけて引き金をひくだけで、ジョージ・オーウェルは2,000人の群衆に強い人だと思わせることができた。
危険は少なく、ただ拳銃をとりだし引き金をひくだけの作業。
しかし、大きな音がなり、巨大な像はその場に倒れる。
最前列にいる人には「おとなしいゾウをむやみに殺す警察官」と映るだろう。
しかし人だかりでゾウを見れない大多数の人は、銃声を聞き、ゾウが撃ち殺された事実を知らされることで、暴れるゾウをしとめた警察官に称賛をおくる。
幸福になりたければ、こういうセレモニーは必要なのだろう。
私も仕事において難しい問題が飛び込んでくることがある。
以前は、ありのままの自分を見られることに無頓着だったので、こういう時、あたふたする自分を電話越しに感じさせてしまったものだ。
でも今は、そういう時は一旦、電話を切り、いろいろと調べ結論が落ち着き、気持ちも落ち着いた時点で、理路整然とした文章を書き、メールやメッセージで回答する。
言葉で伝えようとすれば、言葉のはしばしから自信のなさが伝わってしまう。
文書で書けば、感情は分からない。
一種の虚勢であるが、こうした方が自分は幸福だし、また相手の信頼も勝ち得る。
たとえその回答が間違っていても、それはその都度修正すればいいだけの話。
相手に、ビビッていること、自信がないことを悟られ、相手からの信用をなくすことの方が、はるかに害が大きい。
ウソはいけない。でも正直にさらけだすのもまたダメだ。
隠すのではない。言わないだけである。
小学校では、これとは逆のことを道徳の授業で習う。
感情的にはそうあっても現実は違うのだから、こういうウソは子供に教えないでほしい。
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