キリスト教関係者には、聖書の記述を無理やり近代科学に合わせようとする人がいるが、どう読んでも聖書の記述と近代科学では言うことが違う。
もし近代科学が正しければ聖書は誤りであり、聖書が正しければ近代科学は間違っている。
日本人の多くは聖書を読んだこともなく、小さい頃から「近代科学とは観察によって知ることができた真実の記録」と習っているので、迷うことなく近代科学が正しく、聖書は古代の人が「こうなんじゃないかな?」といった推測で書いた物語としてしまっている。
”近代科学の方が人間の推測で書かれた神話かもしれない”
逆に、そういった発想がないことに驚かされる。
私はたいがいのことは近代科学は正しいことにして生きているが、ただ聖書と近代科学の記述が相反した時は、聖書の記述が正しいと考えることにしている。
一番有名なのが、創造論と進化論。
これに関しては真っ向から対立するため、いくら近代科学とすり合わせを考えるキリスト教関係者でも、近代科学を否定しなければ聖書の記述を否定することになるため、近代科学を否定している。
だが他にも、聖書を読むと、私にはどうしても、天動説が正しいだけでなく、宇宙なんてものは存在せず、地球のまわりを巨大な宇宙映像を写すスクリーンが囲んでいるとしか思えない。
天地創造では、神は太陽や月をつくる前に光をつくられ、地球を照らした。
その後で、太陽をつくり、それを昼間、地球を照らす照明器具にし、次に月をつくり、夜に地球を照らす照明器具とし、ついでに彩を添えるため、星々映像を流すことにした。
我々が習ってきた、地球という玉があり、それが太陽という巨大な玉のまわりを回っている図式とは、まったく違う。
そもそも太陽は照明器具であり、そんなに大きくもないし、そんな遠いところにあるわけでもない。
月にしても、まったく同じであり、天空プラネタリウムの光源ライトでしかない。
ただ私の場合、聖書で読む読まないは関係なく、宇宙は巨大なスクリーンに映し出される映像ではないかと感じていた。
ただ長年、近代科学に感化され、それは間違っていると自分で自分を信じこませてきた。
それが聖書を読み、自分を信じ込ませることをやめた。
近代科学は人間が観測により得られたデータから推測して導きだした真実。
聖書の記述は、世界を創造された神、ご自身から下された啓示。
もし近代科学が正しいなら、聖書は神ではなく古代人が推測して書いた物語にすぎない。
でも聖書が正しいなら、人間が推測したものより、神ご自身が言ったことが正しい。
私はもちろん、後者をとる。
この問題は、大多数の人が近代科学は絶対に正しい教で統一されている日本人にあってはとりわけやっかいな問題だ。
明らかに記述が違うからには、どちらかが本当でどちらかがウソになる。
両方とも正しいと信じることはできないし、「信仰だからいいんだ」みたいなあいまいなこともできない。
聖書は、仏教の経典ように初めから「心の話」としてしまっているわけではなく、「これが科学的事実だ」と述べている。もしそうでなければ聖書は神(創造主)からの言葉ではない。
私もごく親しい人以外にはこんな話はしない。
聞かれても、あいまいな答えを繰り出す。
でも、心の中では、もし聖書と近代科学で違うことが述べられていたらどちらをとるかは、自分がどちらを信じているかの問題であり、両方とも信じることはできない。
そしてどちらを信じるかで、その人の生き方は大きく違ってしまう。
「あなたは神を信じますか?」
この言葉は、近代科学を絶対と信じ込まされている我々には重い言葉だ。
どちらも確実な証拠はなく確証は持てない。
理屈ではなく、どちらを信じるか?自分で決める問題。
そして誰もがどちらかをとらなければならない難しい問題でもある。
ログインしてコメントを確認・投稿する