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2021年03月02日23:30

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救いはそこにないのだけど

人は、神から離れ神以外の物をいくら求めても、そこに救いはない。

聖書の箴言の1章に書かれているように、知恵の初めは神を恐れることであり、神を知ることが人生の基盤になる。

その基盤なくして、まともな知識は得られず、いろいろな思想に振り回され、結局、人生を台無しにしてしまう。

神を恐れれば、おのずと心は神へと向かい、神の言葉を知り、そして神を慕い求める。

そこで初めて、正しい知識を得ることができる状態となる。


不幸が多い人と不幸が少ない人の違いは、正しい知識を持っているかいないかによる。

「魚を与えるより魚を捕る方法を教える」とはよく言われることだが、

それ以前に「魚を捕る思考」が必要であり、魚を捕る思考がない人に魚の捕り方を教えても、馬の耳に念仏であり、聞いてはもらえない。

そしてその思考をもたらすものは、テーゼ(綱領)であり、それが間違っていると、人生がとんでもない方向へと向かってしまう。

そしてこのテーゼこそが宗教であり信仰である。神を恐れることから信仰は始まる。

ここが肝心かなめのネックであり、ここさえブレなければ、案外、幸福な人生がおくれるものだ。

しかし多くの人は、この超重要事項を知る機会もなければ、たとえ接したとしても、そこにしか救いがないことに気づかず、カネ、異性、快楽、ばかりに救いを求める。

いえいえそこには救いはないし、信仰の基盤がなければ、悪い情報に踊らされ不幸になるばかりなのに。


「何が正しいか?」

このとてつもなく難しい問題を”たいして賢くもない自分で考えろ”と言うのだから、今の時代がいかにデタラメな時代か分かる。

正しいことの基準を間違ったところにおけば、周りの人を苦しめ、そして自分自身も苦しむ。

かといって、一人の人間の経験など、さまざまな要素で制約され、また一人一人、持って生まれた得手不得手もあり、まったくあてにならない。

その中で「正しいこと」を考え決めたら、不幸にならない方がおかしい。


神を恐れ神を知ろうとすれば、「何が正しいか」その基準を知る機会を得ることができる。

ただそれだけで、人生が大きく変わるのだ。


でも心が開かれるかどうかは、その人の運命による。

人は他人を変えることも自分を変えることもできない。

ただそこには神の恵みがあるだけだ。


ルカの福音書16章にこんな言葉がある。

もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないなら、たとい誰かが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。

彼らは「神なんて妄想であり実在しない。そんなものではない実体のある物の中に幸福がある」と考え、神から目をそらし、救いを他に求める。

でも、彼らが求めるどこにも救いはないし、また彼らが神から離れれば離れるほど、正しい基準を知る機会からも離れ、そして破滅する。


若者の時に一番知るべきことは伝道者の書12章に書いてある。

あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。


福祉の仕事をしていると、多くの不幸な人たちに出会う。

彼らは物質的に窮乏しており、物質ばかりを求める。

乞食に魚を与えても、一時腹が満腹して終わり。

「では魚の捕り方を教えよ」となるのだが、その魚の捕り方を知るには、心が必要である。

まずこの心のところがなっていない。

彼ら一人一人に聖書を渡したとしても、彼らはこう考えるだろう。

「神なんかでは飯は食えない。こんな実体のない思想(心)ではなくカネくれ米くれ」

そして聖書は次の廃品回収日に廃品として出されてしまう。

いえいえ、まずは心で次に手段、そして初めて物が手に入るのですよ。

あなたの人生が破滅したのは、心がなっていなかったため。

心を正しくすれば、魚の捕り方を習得し、そして最後に物質的に恵まれる。

まずは心なんだよ。


心の教育は”恐れ”から始まる。

だから知恵の初めは神を恐れることであり、その恐れなしでは、正しい知識と接しても、それが正しいと認識することなく、誤った知識ばかり集めることになる。


神を必要としていない人に神を売り込むことはできない。

その人が神を求めて来た時、初めて神を伝えることができる。

神のことは一番重要なことではあるが、たとえ親兄弟であっても親友であっても、それを必要としていない人にそれを伝えることはできない。

彼らは救いをもたらすものに関心を持たず、救いをもたらさないものに救いを求める。

一生、神を知らず、はかない人間の情愛や快楽などに救いを求め続けた人が、最後に死ぬ時、いったい彼は自分が幸福だったと思えるのだろうか?

ただ情愛や快楽で心を満たすことで、自分の死ぬべき運命から目をそらし続けてきた人生ではなかったのか?と思う。

”最後に死が自分を包む時、ボケて認識できなければよい”ぐらいの話ではないだろうか?

日本人の多くが、そうやってむなしく死んでいく現状を見るにつけ、ああはなりたくないなとつくづく思う。


あなたが、一生、避け続けた”神”にこそ、救いがある。

それを避けては、人生の基盤が持てないのだから、その上に正しい知識を積み重ね幸福になることもできない。


でもそれは人の力でできることではない。

神が人を選び、人は救われる。

世の中、救われる人は救われるし、救われない人は救われない。

個人の思想はそんな運命によって形作られ、人は自分で選択して生きているようで、本当はそのような人生を運命づけられ生きている。

個人の選択は個人の選択以前に運命で決まっている。


”神のあわれみが私の身近な人にありますように”

私にできることは、そのことを神に祈るぐらいである。
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