英語の助動詞にwillというものがある。
このwillは未来を表す助動詞と言われるが、厳密には意思と予測を表す助動詞だ。
「(××が○○するつもりだから)将来○○ということが起こる」
「私は(××が○○する意思があると感じているので)○○が起こると推測する」
この2つの意味を表すことから、日本語に訳すと未来を表すとされている。
しかしこの助動詞は確定した未来を表す言葉ではなく、途中で××が意思を変えれば、未来も変わるし、私の予測もはずれる。
willには揺れる気持ちが含まれており「右にいくか左にいくか確証は持てないが、現時点では右にいくと感じているよ」みたいな意味である。
だから相手の気分を聞く時の表現にも使われる。
Would you mind if I smoke here?
私がここでタバコを吸ってもあなたは気にしませんよね(今の時点で)?
その人がSureと言ってならOKだと思いタバコをぷかぷか吸っていたら、その人がせき込み、やっぱりダメとなることもある。
変えるつもりのない未来の場合は、相手がせき込もうが、拒絶しようが「タバコを吸う」という行為がなされることが変更されない。
こういう時はbe going toを使う。goingは進行形であり、行為がなされることを指す。
I am going to smoke tomorrow.
私は明日タバコを吸っている。(うまく訳せないがニュアンスとしてはこんな感じ)
日本語ではこの区分けがなく、どれもあいまいな未来しか表せないので、英語を例にとったが、未来に関しては、確実に起こることは誰にも言えない。
あくまでその行為を行う主体がいて、それが強く決意しているか、揺れる気持ちを持ちつつ軽く決意しているかだけである。
助動詞は、基本的にその人のその時の思いを表現するものであり、確実性が薄い。
だから相手の意思を尊重しつつも依頼する文章にすることができる。
ちなみに命令形で動詞の原型を使うのは、相手の意思を尊重しないからだ。
おまえは○○する(しないという選択肢はない)。
なぜこんな英語の話をしたかといえば、世の中で起こることはwillであり、現時点ではそのように思えても、次の時点ではどうなるか分からないものだから。
willは振り子のように左に揺れたり右に揺れたりする運命を表し、それが左にいくか右にいくかは神のみぞ知る。
私はキリスト教徒になっても、なかなか「神に祈る」ことが理解できなかった。
「すべてのことには理屈があり、物事は原因と結果でできあがっている」
そういった思想を幼少の頃から刷り込まれてきたからだ。
原因と結果で物事が科学的に積み上がっていくなら、そこには正しい行為が存在し、それをすることで未来は揺れ動く振り子ではなく確定したものとなる。
それなら原因を究明し、因果関係を解き明かせば、現在の行動で未来を確定できる。
神に祈っているのは、やらなければいけないことの究明をおろそかにし、他者になんとかしてくれと頼んでいることであり、気休めにはなるが、神様が神通力で因果律を曲げ、物事を成し遂げてくれない限り、祈ることによる解決は望めない。
私が100回祈っても、神様は神通力で因果律を曲げ、私を助けてはくれないだろう。
そう感じていた。
だからどうしても「神に祈る」という行為が、神様に対してはずううずうしく、人に対しては情けない。そんな気がして抵抗があった。
しかしそれは私が間違えていた。
物事はwillであり、因果関係で結果が決まるわけではなく、結果は揺れる振り子のようにどちらに転ぶか分からない。
どちらに転ぶかは自分の行動の結果として決まるわけではない。
このwillの振り子をどちらにふるかは、そのwillの主語が自分であっても他人であっても、その人ではない。神や悪魔である。
無神論者はこのことについてこう言う。
物事は複雑系であり、因果関係が複雑にからみあっているため、今の段階では、結果は支配できないが、それを一つ一つ解明していけば、いつかはすべて因果関係(科学)で説明することができる。
ただそれは「ブラジルの森で蝶が羽ばたくとテキサスで竜巻が起こる」ようなことなので、到底、今の人間には解明できない。結果は偶然として考えるしかない。
もしかりにブラジルの森で蝶がはばたくことまですべて把握し、その超絶膨大なデータを科学的に分析し科学の法則で因果関係を調査できるようになったとして、そうすれば、本当に原因によって結果を支配できるようになるのだろうか?
私はもしかりにそこまでしたとして、やはり結果は支配できないと思う。
このwillの振り子は神様と悪魔が握っており、右にいくか左にいくかの意思とは、人の意思ではなく、神や悪魔の意思である。
このことに気づいて、ようやく「なるほど神に祈ることが大切なんだ」と分かった。
世の中には、神を信じず、物事はすべて原因と結果でできていると言う人がいる。
彼らは「俺は正しい方法をとってきたから成功している」と言う。
確かに傍からみれば彼らは正しい努力と正しい行動によって物事の成り行きで成功しているように見える。
でも本当は、彼らがそのwillで常に成就する方向に振り子がふられるのは、因果関係の結果ではない。
”悪魔が彼らを成功させているから”だ。
悪魔は、振り子を操作することで、彼らが自分の正しい行動によって未来を思い通りにできているかのように見せ、彼らが科学に傾倒し正しい知識を得ることから遠ざけ、因果律を信じ、神様を否定し栄光を自分に帰すことを望んでいる。
彼らは因果律が正しいと確信し「できないヤツはやらないからだ」と言う。
彼らにとっては、世の中は科学によって成り立ち、行動が結果に現れる。
行動が結果に現れるのは、悪魔が振り子を成就で止めてくれたからなのだが、人はそのことに気づかないから、自分の行いがその結果を作り上げたと思い込む。
しかし悪魔に愛されていない人たちは、悪魔が振り子を成就で止めてくれないので、彼らと同じようにやっても、結果は成就したり失敗したりする。
神を拒否することで悪魔に渡された人たちには悪魔がついているので、神に祈る必要はない。
しかし、悪魔がついていない人は、神に祈り、神に振り子をふってもらわなければ、何事も成し遂げられない。
だから神を信じ、神に祈る必要がある。
そして忘れてはいけなのは、willは私の意志で決められない未来の予想であり、神様にお願いすることはできても、それをしたからといってどうこうなるものではない。
神は人からの命令に従わせられる存在ではない。
すべては神の勝手であり、人はただ神の愛を信じ祈るしかない。
神の愛を信じるためには神を知らなければならないが、神を知りたくても、人から神へはアクセスできない。
ただ神が人に与えたメッセージを受け取ることで、神を知ることができる。
もし神を知ったところで、人を愛さない神なら、人には絶望しかない。
しかし神が人へ与えたメッセージである聖書を読むと
これ以上ないほど幸いなことに、「神は人を愛している」ことが分かる。
そのことを知れば、自然に、神に対する感謝と祈りの感情がわき起こる。
神への祈りとは、自分ではどうにもならない結果を、神を信頼し神の御業の一環として受け取ることだ。
私が愚かだったのは、子供の頃から大人の話を真面目に聞き、科学の本を読み勉強しすぎたせいで、正しい知識から遠ざけられ「物事は人の行いにより決まる」と勘違いしていたことだ。
神を信頼せず自分の力に頼ったことが私の不幸の原因だった。
キリスト教徒になった頃、教会の人たちが「神に祈ることは大切なことだ」と語っても、イマイチ理解できなかった。
しかし今は、「神に祈ることは大切なことだ」と、私も知っている。
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