「今を楽しく生きられたらいい」ただそれだけを考えて生きていても、いつか死ぬことを思えばむなしくなってしまう。
人生の早い段階で「死後は無になる」と決め、「神は妄想。天国や地獄はない」そういうこととして信仰する。
そうやって死んだ後のことから解放され、今を生きる人生を選択する。
そういう人もいる。神を信じない生き方だ。
でも「死んだら無になる」と信じられない人は、どうやったら天国に行けるのだろうか?考えざるを得ない。
「今は忙しいから後にしよう」そうやって後回しにする。
後回しにして後回しにして、いざ死ぬ年頃になり、あわてて情報を集める。
それで慌ただしくこの世を去って行く。
行き先は消滅なのか、天国なのか地獄なのか、それは分からない。
もし死が消滅なら「死後は無になる」と信じていた人が正しく、もしそうなら「死後は無になる」と信じた人も、人生の最後にあたふたした人も、早い段階から信仰を持った人も、結果は同じ無である。
でも、もし消滅でないのなら・・・。
「死んだら無になる」という信仰を持てない人は、死後の世界についても、若い頃から少しは考えておく必要がある。
この世で、よい思いができるか?嫌な思いばかりになるか?
それは、本人には選択できない。遺伝子と環境でほぼ決まってしまう。
こんな世界にあって、それでも「今の人生は楽しい」と思える人がいたなら、それは本人が立派だったのではなく、遺伝子と環境がよいのだ。
努力するのは当たり前。誰だって努力している。
でも結果は遺伝子と環境で決まり、本人にはどうしようもない。
もし死んで無になるなら、人生は救いようがないほど不公平だ。
「死んだら無になる」を信仰することで死後の世界を考えるわずらわしさから逃れられるのは、その人の遺伝子と環境がよいからであり、その人が強いからでも聡明だからでもない。
遺伝子と環境がよくない人がこの信仰を持つには、遺伝子と環境がよい人の100倍、強い信仰心が必要となる。
世間を見回すと、遺伝子と環境がよくない人は、せめて信仰だけでも遺伝子と環境がよい人に合わせようと、この信仰を持とうとする傾向がある。
それで狂信的になり、無茶苦茶になってしまう。
無理せず、感じるままに信仰を持ってよいと思う。
”死んだら無になる”
それを信じる人は、これを科学的な真実だと主張する。
でも、それは科学ではなく、仮説(宗教)の一つにすぎない。
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