”人は「イエスは救い主である」と告白し洗礼を受けることで天国へ行くことができる”
神様は人の行動をすべて知っている。その人が教会に行き、信仰告白をし洗礼を受けることは、ただの教会の儀式ではなく、神様の目にもとまっている。
信仰を告白する時、目の前にいるのは人であるが、目に見えない神様に告白している。
神様はその行動を見て「こいつはイエスを信じたので、将来は天国へ行けるよう、いのちの書へ名前を記そう」となる。
これはお金儲けより大事なことだ。
頭では分かっているのだが、
与えられる恩恵に対し、やらなきゃいけないことがあまりにたいしたことない。
洗礼を受けている時、聖霊や神様が現れれば「なるほどこりゃすごい」と思えるが、ただ牧師が信仰告白を聞き、水を垂らして儀式をとり行うだけ。
中学校の入学式と変わらない。
また何度でも繰り返し行うことができる。宗派が違えばその宗派のやり方で再度受けさせられるし、教会が違えば再度受けさせてもらえる。
一生に一度というものでもないので、結婚式よりありがたみがない。
人間の間では、思っただけでは他人に伝わらない。
口に出して言うことで、その人がそう考えていることが分かる。
また口に出して言ったことは、たとえ本心でなくても、その人の意思となる。
しかし神は人の心が分かるのだから、
口に出して言わなくても、その人が信じていることを知っている。
口に出して言っても、その人が信じていないことも知っている。
死後、救ってくれるのは神であり教会の人たちではない。
それでも神は、まるで人のように口に出して言わないと救ってくれないのだろうか?
”神は形で示すことを求めている。心で信じたなら形にして表すだろう。”
それが聖書の見解。
信仰告白と洗礼はたんなる儀式だが、神が「これをしたら信じていると認める」と言っているのだから、人ではなく神に「信じている」と認めてもらうためにする。
カトリック教会は宗教の多様性を認めてしまった。
カトリック教会は、他の宗教は「信仰告白と洗礼以外の方法で天国へ行ける」と唱えているが、そのことに対し「それでは天国へ行けない」とは言わないことにした。
プロテスタント教会は宗教の多様性を認めていない。
しかしプロテスタント教会でも「他の宗教を信じる人や信仰を持たない人は地獄行きだ」とまでは言わない。ただ「天国へ行ける」とも言わない。
一部の信者は「信仰告白と洗礼をしない人は地獄行きだ」と言う。彼らは「無神論者はもちろん、仏教徒、神道教徒、神社でお参りする日本人はみんな地獄行きだ」と憤慨し、家族から友人・知人あらゆる人たちに対し、ことあるごとにこの儀式をするよう勧める。
しかし多くの信者は「信仰告白と洗礼をすれば天国へ行けるというので、私はそれをした」とは言うが、他人のことには言及しない。
何を信じるかは、その人が生まれ育った社会によって大きく左右される。
自分の意思で選べないところでもある。
それだけにこの問題は考えれば考えるほど悩んでしまう。
私としては「信仰告白と洗礼はたんなる儀式だが、聖書にはこの儀式をすることで天国へ行けると書かれているので、これをすれば天国へ行ける」としか言いようがない。
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