今では、あからさまに「ブス」とか「ブサイク」と言われることがなく、またお世辞で「かわいい」や「かっこいい」など言ってくれる人に囲まれて育つため、自分の顔面偏差値を正確に把握できないで大人になってしまう。
でも、他人の反応によってその人の行動様式は形成されるため、顔面偏差値の違いから行動様式に明らかな差異が生まれる。
「顔は遺伝で決まる」と言われるが、性格もまた顔によって大きく左右されるので、「遺伝で決まる」と言える。
自分では自分の顔面偏差値がどのレベルか意識しないようにしていても、自分の行動を振り返ってみると、残酷なほど顔面偏差値が現れてしまう。
いったい自分はどのレベルにあるだろうか?
そう考えた時、自分の行動を振り返ってみるとよい。
顔面偏差値が高い人は「人生の輝き」に重点を置く。
また「人は努力でなんとでもなれる」という考えにおちいりやすい。
そして「人は顔ではない。心が大事だ」と言う。
綺麗な女性は努力して綺麗になったのではない。
綺麗な体を自覚することで綺麗になるのである。
もしブスの体を与えられれば絶望しかない。
しかし美人にはその現実が理解できないので、こういった思考におちいる。
顔面偏差値が高い人は無神論者になりやすい。
そのため、若い頃はよくても歳をとると「輝けなくなった自分」に悩み、他の価値観を持つことができないため、絶望することが多い。
顔面偏差値が平均的な人は「運命」に重点を置く。
また「努力するより分をわきまえる」という考えにおちいりやすい。
そして「人にはそれぞれ定められた運命がある」と言う。
顔面偏差値が上の人との間には努力では超えられない一線があることを自覚している。
一方、顔面偏差値が下の人との間にもまた一線があることを自覚している。
その上下の線引きは、自分の努力とは関係なく、一方的にひかれてしまっている。
上を見て絶望し、下を見てまだマシだと安心する。
努力ではなんともならない。
その範囲内で生きていくことが、人生だと自覚している。
顔面偏差値が平均的な人は信仰を持ちやすい。
おごることなく、絶望することもなく、神様を信じ、
一生を通じ安定した心の状態を維持する。
顔面偏差値が低い人は「しきたり」に重点を置く。
また「人は正しい生き方に縛られるべきだ」という「べき論」におちいりやすい。
そして「人には守るべき行動様式がある」と言う。
つまり「べき論」で相手を縛り「自分と交際しろ」ということなのだ。
外圧でもって強制するしか恋人を作る方法がない。
パーティーで知り合ったら、男は女の子(私)をデートに誘わなければいけないし、また女の子(私)におごらなければいけない。
なぜ俺の気持ちを無視するんだ。LINEの返信をするのは人として礼儀だろ。
こういう思考におちいる。そしてたいてい彼らは異性が嫌いだ。
そして必ず言うのが「人は顔が大事。性格など顔によって決まる」。真実である。
その一方で、悪い顔のためゆがんでしまった自分の性格を自覚せず、自分の顔面偏差値が低いことから目をそらし、相手の批判ばかりする。
顔面偏差値が低い人は神を憎みやすい。
美人は、神の存在を考えず、神を愛しもしないし憎みもしない。
平均的な顔の人は、神の存在をなんとなく感じ、神を愛している。
ブスは、神の存在を確信し、それでもって神を憎んでいる。
私自身は幼少の頃から顔をほめられることが多かったが、それはお世辞だと思う。
実際の顔面偏差値を考えた時、一番しっくり来るのは、顔面偏差値が平均的な人。
友人には顔面偏差値が高い人がいて、彼らは「あきらめるな。努力しろ」と言い、また「神などいない。人生の輝きこそが生きる目的」と言う。
私も彼らみたいになりたいと願い、彼らの思考をマネたが、精神的にまいってしまった。
自分には合っていない。
また私は、ブス化して顔面偏差値が低い人の思考におちいりがちだったが、意外と自分が女性にモテることを知り、「べき論」の息苦しい世界で生きることがバカらしくなった。
ブサイクほど絶望していないが、イケメンほどおごることもない。
そして私は、はっきりと神を自覚することはなかったが、なんとなく神を信じ心ひかれている。
これらのことから、私は、自分の顔面偏差値を「平均的なもの」と判定している。
時々、こんなことが頭に思い浮かぶ。
顔面偏差値が高い人は、人生の正の面しかみないので、現実を知らない。
顔面偏差値が低い人は、人生の負の面しかみれないので、性格がゆがむ。
顔面偏差値が平均的な人は、好かれる人には好かれるため顔面偏差値が高い人の気持ちが分かり、また努力ではどうにもならない一線によって切り捨てられるつらさも経験するため顔面偏差値が低い人の苦しみも知る。
顔面偏差値が平均的な人は、多角的に物事を見るため、幸福になりやすい。
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