神を知らない日本人っていうのは「こんなすごいヤツがいる」「あんなすごいヤツがいる」それらのすごいヤツを崇拝することで心の安寧を得ようとする人間崇拝者。
神を否定したニーチェが到達した「超人」思想。
だからニーチェの思想が日本人には人気なのだが、ただ重要な点は、ニーチェは神を知った上で神を否定しているのだが、日本人は知らない神を否定していることだ。
ニーチェは神を否定したところ、考えすぎて狂い死にしてしまった。
しかし日本人はニーチェのような葛藤を感じることなくすんなり人間崇拝者になれる。
他人を崇拝すればダメな自分が見えるわけであり、ダメな自分は努力で崇拝している人たちになれると考えられるのは20代まで。
30代以降、残念ながら遺伝子で能力が決まっていることを知り、絶望して自殺する人が後を絶たない。
人間崇拝ができなくなれば、今度は快楽主義になり、カネだ女だ、どれだけ快感を得たかがすべてになる。
今の文学作品、映画作品は、心地よい言葉、綺麗な言葉、感動する言葉であふれているが、その実、それらの言葉には中身がない。
こんな日本の状況を見るにつけ、日本人は神に見放された民族だと思うし、
また「日本が発展したのは悪魔に好かれた結果だ」とすら感じる。
神を知らないくせに、神を否定し自分が賢いと思っている愚かな民は、悪魔にとって最も都合がよい存在。
だから日本は発展させてもらえたのだ。本当「呪われた国だ」と感じ嫌になる。
今日は著書「イエスは実在したのか?」で「イエス・キリストはただの立派なおっさんだった論」を展開したレザー・アスランさんというイラン系アメリカ人の著書「人類はなぜ<神>を生み出したのか?」を読んだ。
聖書を人が書いた創作物語とし、「人類はどうやってこの物語を編み出したのか?」を解説した本だ。
もし彼が言うように聖書が人の創作物語なら、人類の歴史はこの壮大な創作物語に左右されてきた歴史であり「いったい人類、何やっているんだ?」って話である。
日本人は無知だから、進化論も共産主義も2つの世界大戦も、原爆まで落とされたにもかかわらず、その真実を何も知らない。
何も知らずに巻き込まれ、「各国のゼニ儲けがそれらの原因だ」と勝手に解釈し、でもなんかしっくりこないと考えているのが日本人。
これらの事情を熟知しているユダヤ人からみたら「日本人はアホだな」である。
でももし聖書が神の言葉なら、人類がこのたった一冊の本に翻弄され続けてきたのは、当然のことであった。
聖書を神の言葉と信じるか?信じないか?は大きなテーマだ。
先週の土曜日、久しぶりに地元の美術博物館に行って来たのだが、そこに竪穴式住居の模型が展示してあった。
竪穴式住居とは、地面に穴を掘り、その上にかやぶき屋根の屋根だけを建てたような家。
「これが昔の家だ」と信じ込まされてきたが、ちょっと待てよと疑問符がつく。
かやぶき屋根の下には板の屋根があり、かやは雨をはじくためにあるにすぎない。
竪穴式住居には板の屋根はなく、格子に組んだ木材の上にかやを乗せる。
こんなものを建てたら、雨漏りし放題、それに虫も発生し大変なことになる。
しかもこんな「燃やしてください」みたいな家を建てたら、火事にならない方がおかしい。
こんなものが家なわけがない。
日本の考古学がまったく幼稚なものであることにあきれるばかりである。
少し考えれば分かりそうなものでも、学会が権威を持って「正しい」と言えば盲目的に信じてしまうのが日本人。
こんな日本においては、聖書は神の啓示か人の創作物か研究する人すら現れない。
「唯物論が正しい」とされたら、それをただ盲目的に信じるだけで、それを証明しようとすらしない。
日本人は神を知らない。神を知る必要性すら感じていない。
そして神を知らないから不幸になっていることから目をそむけ、解決にならないものばかりにすがろうとする。
それは見ていて本当にもどかしい。
聖書は机に置くと立つ。
その様を見ただけで、読もうとは思えない。
また読みだしても、おもしろくない。
それでも一度は通読することをお勧めしたい。
神を信じるにしても信じないにしても、
神を知らずにいることは不幸なことだからだ。
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