マイルド・ヤンキーの先輩が言っていたことがある。
「”おまえは将来をあれこれこうすればこうなる”と考えてしまうが、そんな設計どおりにはいかない。どんな結果が来ようが、そこで考え自分で決めていかなければいけない」
「他人に流されるな。受動的になるな。たとえ戦場で死ななきゃいけない時であれ、殺されるのを待っているのではなく、自分から突撃しろ」
「道が開けるかどうかは分からない。でも自分の意思で主体的に生きるってことが大事」
本当に先輩の言う通りだと思う。
私は人から嫌われたくない。他人に責任を転嫁したい。自分で決めて失敗したくない。
それらの感情から、受動的に生きて来た。
仕事はつまらないが、働かないと食っていけないので働く。
死ぬのは怖いので死なないで生きている。
女をふると後ろめたいので女に愛想つかされるようにする。
疲れる人だけど友人だから縁が切れない。
いや違う。
お金が欲しいから仕事をする。
死にたくないから死なない。
俺が愛想をつかしたからその女をふる。
友人だけど疲れる人なので縁を切る。
そうやって一つ一つ主体的な言葉に替えていくと、生き方全般が変わってくる。
いくら原因を解明しても望む結果が得られるとは限らない。
どんな結果になろうとも、他人に流されるのではなく自分が決めて人生を歩む。
これ本当、大事なこと。
実際、結果より主体的に決めることが大事なんだよね。
平家物語には木曽義仲の最期がある。
勝敗は武家の常。勝つときもあれば負ける時もある。
昔の武士は勝っても負けても、結果はどうあれ、
かっこいい自分であろうとした。
結果は左右できない。でもどんな時もかっこいい自分でいられる。
かっこいい自分が後世に語り継がれれば、武士としては勝ちである。
敗者の木曽義仲が1000年たった今でも人を感動させるのはすごいことだ。
人の行動の多くは、本当は本人が決めているのではなく、状況から選ばされている。
でもそれをあえて自分から行動することに意味がある。
戦場では自分が出て行こうが行かまいが敵が来る。
こちらから出て行こうが、塹壕にこもっていようが、命をかけて戦う選択しかできない。
でもそこで、あえて「俺は戦う」と決め、塹壕から飛び出し敵陣に切り込む。
これはマイルド・ヤンキーの生き方だけど、今後は私もそんな生き方をしたい。
主体的に生きなければ、嫌なことつらいことばかり起こる。
世間は主体的に戦おうとしない者に対し最低のモノで応える。
私の今までの不幸を思う時、そのことがつくづく悔やまれる。
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