人の意識は脳の生み出す電気信号であり、脳が形成されると同時に生まれ、脳が活動を停止すると消滅する。この人生はたった一度きりのものであり、二度、三度、あるものではない。
もしこれが本当なら、嫌でもこの現実を受け入れるしかない。
「魂の不滅」を言うことは勝手だ。でもいくら言っても、死んだら消滅し、二度と目覚めることはない。
「魂の不滅」はただの気休めにしかならない。
でも、もし意識は脳とは別に存在し、脳が活動を停止しても存在し続けるなら、いくらそれを否定しても、これまた現実を拒否しているにすぎない。
日本の知識人は「前者が正しい。後者は迷信だ」と言ってはばからないが、実際、彼ら自身、それを証明できるわけではない。それはそれで彼らの信仰である。
実際、本当に賢い人は「死後の世界は分からない」と言う。
もしこの生がたった一度きりのものであり、人は死とともに消滅してしまう存在なら、たとえ苦痛だけの世界であっても、その生にしがみつきたい。
しかしもし意識が脳とは別に存在するなら、壊れた車に乗り続けるより、早く車から降りて他の車に乗り移った方がよい。
人はいつかは死ぬ。コロナ、コロナと騒いでいるが、人間の死亡率は100%であり、早すぎる死が問題なだけであり、歳をとれば、コロナで死のうが他の病気で死のうが、ただきっかけが違うだけで必ず死ぬ。
ただ今の人たちは、建前では「死ねば無になる」とし、その暗い「死」というものを極力考えないようにして生きている。
死について考え出したらきりがなく、誰もがいずれかは体験するものなのに、生きている間、人がそれを知る術もない。
他人の死については冷淡に。自分の死については考えない。
それが今の人たちのスタンスだ。
しかし安楽死の問題をつきつけられると、死について考えざるをえなくなる。
聖書を読むと人は一度死ぬことと復活して裁きを受けることが書かれている。
仏教では「生は何度も転生し何度も人生を繰り返す」ことになっている。
昔、魂の重さということが言われたことがある。
「人が死ぬと魂物質が抜けるため、少し軽くなり、それが計測できた」と言い出す人が現れたからだ。
今では否定されているが、真実は謎である。
仏教で輪廻転生を唱えたのは、自然を観察し、その事実を集め、帰納した結果、それが科学的に正しいと出たから。
森羅万象は流転する。
それが自然科学の法則であり、だから人の魂も流転する。
今の科学は、人の体を生体でできたロボットと仮定し、分からないことは、無理に説明してしまっている。
そして最も安易に分かりそうな結論を導きだしてしまっている。
科学とはまず最初に仮定があり、それを証明していく作業であり、最初に唯物論があれば、それにそった証明になる。
唯物論は目に見える物質だけしか考えないので、単純で分かりやすい。
そのため、広く信じられている。
それに比べ、昔の科学の方がいろいろな可能性を考えていた。
死はいくら考えても分からないことであり、どう証明しようが、それが確かに正しいとは言えない。
ただ神が人に死について教えてくれた書がある。
それは聖書だ。
聖書がもし人の手によって創作された物語なら、それでも道徳書、法律書、歴史書、文学作品とどれをとっても、とても優れたものだが、それでも人の救いにはならない。
聖書が神の手によって書かれたこの世界の真実だからこそ、聖書は計り知れない価値を持つ。
死はいくら考えても分からない。
しかし人は誰もがいつかは死に直面する。
「考えたくない」と逃げても、いずれ思い悩むこととなる。
死は理屈(科学)では分からない。
ただ死を知っている方が教えてくれたことを信じる。
それが正解だと思う。
私は安楽死に対し「もし体がダメで、残りの人生、苦痛しかないなら、安楽死は悪いことではない」と考える。
しかしそれはただ苦痛から逃げ自分を消滅させてしまう行為ではなく、壊れた車から降り、新しい車に乗る行為。
新しい人生への出発点だと考える。
人は生きなければならない。生きてその運命をまっとうしなければならない。
でもそれは健康な体があってのことであり、壊れた体で生き続けることまでは含まれないと考える。
これは私の見解であるが。
■患者女性「安楽死許して」=ブログなどに赤裸々な内面―医師嘱託殺人
(時事通信社 - 07月24日 07:30)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=6169353
ログインしてコメントを確認・投稿する