飲茶(ヤムチャ)さんが書いた「最強の哲学入門」を読んで、仏教最大の法典、法華経が、自画自賛ばかりで肝心の教えが書かれていない理由が分かった。
仏教は体感する教えだから文字で書き記すことができない。
仏典は悟りの内容を書いたものではなく、悟りを得たらどんなに素晴らしいかを書き、読む人に悟ろうという気を起こさせることを目的に書かれている。
だから「知ればすごい」を繰り返すだけで、肝心の「何を知ればすごいのか?」は書くことができない。
仏教ではこんなことを言っている。
人は何かされると脳内物質を出し、その物質によって幸福とか不幸とか感じる。
そこには感じる自分はいるが、その幸福や不幸は伝達されてきた物質にすぎない。
その情報を外から眺めることができれば、この世の幸福も不幸も存在せず、
また何物も自分自身を傷つけることができず、また自分自身はそれらの物質(幸不幸を感じさせるもの)とは、独立して存在する。
このことを体感することが悟りであり、それを体感すれば、この世の苦悩から解放される。
仏教ではこの世は苦しみの世界とされ、
輪廻転生によって、生まれては死に苦しみを受け続ける。
なぜ苦しみを受けるこの世界に生まれてしまうのか?
それは快楽や苦痛に執着するから。
なぜ執着するのか?
それらが自分自身だと勘違いしているから。
この勘違いに気づくことで、輪廻の輪から抜け出し、肉体のない、意識だけの平穏な世界、至福の世界で生きることができる。
ようやく仏教の真髄を知識としては知った。
でも知識としてあるのは、まだ知ったことにはならない。
その幽体離脱して外から自分を眺めることができた時、初めて知る。
仏教の目指すところはそこであり、そのために修業をする。
しかしある人曰く「仏教の悟りは痴呆」らしい。
つまり脳が物事を正しく受け止めることができない体験。それが悟り。
実際、私も、この話を聞いて、確かに仏教の悟りは痴呆症ではないかと考えてしまった。
しかし人が感じる幸不幸を脳内の活動と見抜いたことはすごい。
どんな不幸に対しても、脳内のウツ物質の発生を抑えれば、幸福でいられる。
なぜ人が麻薬に手を出すのか?
それは麻薬こそ、人間の脳内で幸福と不幸を感じさせる脳内物質だから。
どんな状況であれ、麻薬を入れれば、人は幸福になってしまう。
たとえ飢えて死のうが、笑顔で笑いながら死んでいく。
仏教では自分の意思で心と脳を離し、脳内に快楽物質が出ようが、ウツ物質が出ようが、それに影響されず、常に平静な心でいられると言う。
でも私は、それに成功した人を見たことがない。
心と脳は一体であり、心で脳はコントロールできない。ただ麻薬などの物質を摂取することで脳をコントロールすることはできる。
麻薬中毒患者のように脳内を快楽物質(麻薬)で満たし、不感症にしてしまえば、本人は幸福感で満たされるが、外から見れば廃人になる。
また脳は誤作動もよく起こす。それがウツというやつだ。
禅とは、突飛な刺激により、この心と脳を離す体験をすることらしいのだが、
実際は、そんなことはできず、昔の修業僧は大麻、香などの麻薬によって悟り体験をしていたのではないかと思う。
また、もしそんなことができてしまった時は、それこそ痴呆である。
私は心を脳から離す体験ができるとは思えない。
ウツになった時は、無理せず抗ウツ剤を飲むことにしたい。
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