Youtubeの動画で岡田斗司夫さんが、宗教について、物事を考えすぎてしまう人が幸福になるための精神安定剤みたいなことを話していた。
岡田さん曰く、あれこれ思い悩んでしまう人は、いくら考えても分からないことに対し、なんらかの結論が得られないと心の平安が保てない。
そこで宗教の出番となる。
「ずばりこうです」と真理を示すことで心の平安を与えるキリスト教やイスラム教。
心が楽になる考え方を教えることで心に平安を与える仏教や日本の各宗教。
キリスト教徒の私からすれば、宗教は神様からの啓示だが、一般の人にしてみれば、宗教は現世における心の安らぎ。
この考え方を否定する気はない。
ただ一つ謎なのは「なぜこうも宗教が嫌いな人が多いのか?」ということ。
宗教と聞くだけで「洗脳される。怖い」と耳をふさぎ、一切遮断してしまう。
物事を考えすぎない人はそれでもいいかもしれないが、物事を考えすぎない人が言う「宗教を信じたら人間おしまい」みたいな言説を真に受け、宗教を拒絶しているため、心を病んでいる人たちがいる。
私は、特定の宗教団体に入れ込むのと、特定の宗教を信じるのは違うと考えている。
物事を考えすぎてしまう人は、なんらかの宗教を信じ、その考えすぎてしまうクセに対処した方が心の健康によい。
でもそんなことを言うと「宗教に勧誘する怪しい人」になってしまう。
そのため考えすぎてしまう人は、救いが目の前にあってもそれを拒絶し、いつまでたっても精神を病むことから逃れられない。
最近、哲学入門を読んだが、西洋哲学はニーチェが「神は死んだ」と言い、「神なき時代の生き方」を模索した頃から、病的なものになってしまっている。
新約聖書においてパウロは哲学を「騙し事」と呼び、マルコムXは「どうでもよいことを考えすぎ」と言った。
聖典を読めば、哲学者が思い悩んだことの答えが書いてある。
でも哲学者は、それを認められないため、あれこれ自分勝手な解釈をこしらえ説明した気になる。
確かにマルコムXが指摘したように「考えなくてもよいことを考えすぎている」。
そしてまた、彼らは総じて不幸である。
本来、宗教に救いを求めるべき人が、宗教を拒絶し、自分の知性で神の領域に挑んだ結果、不幸になっている。
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