前回の日記でトイレで手を洗わない人のことを書いた。
トイレで手を洗う人から見れば「トイレで手を洗わない。その汚い手でみんなが食べる食べ物をさわる」行為はテロに等しい。
私の所属した消防団のつめ所は、1階が消防車両の車庫で、2階に玄関と部屋があり、玄関のところに台所とトイレがついていた。
料理当番は新人2人であり、先輩方が部屋でゴロゴロしている時、食事を作る。
一緒に当番にあたった同期が、便意をもよおしトイレにかけこむ。ブリブリ音が聞こえ、スッキリして出てくるのだが、手を見ると乾いている。
洗っていないのだ。
その汚い手で、手づかみで肉を鍋に放り込み、野菜を切ったり、米をといだりする。
こちらはギョッとしているが、相手は何食わぬ顔。
「トイレに行ったら手ぐらい洗えよな」
「佐藤は潔癖症だな。ウンコついてないからだいじょうぶだよ」
ウンコって?料理する時、ウンコがついた手でしたら、殺人行為だろ!
「少々、ウンコがついていたって、焼いたり煮たりしたら菌は死滅するから問題なし」
問題大ありだろ!
ここで私が怒れば、彼も逆ギレすることは目に見えている。
私「トイレに行って手を洗わないのは許せない」
彼「おまえの嗜好をおしつけるなよ」
言いだしたらきりがない。
洗わない手で料理を作るのを見ながら、その料理を食べなければならない。
気休めに胃腸薬の正露丸を飲んで「これでばい菌は死滅した」と信じるしかない。
違う嗜好を持つ他人と一緒に生活するのはしんどいものである。
私はトイレで手を洗わない彼の不潔行為に泣き寝入りしたが、中には泣き寝入りせず、口やかましく言う人もいる。
でもトイレで手を洗わない人は、何度言ってもトイレで手を洗うようにはならない。
そこでまたあの名言が出る。
「言ってもできないのは、やる気がないから」
この発言には2つ大きな問題がある。
1つめは「自分の嗜好が正しく相手はそれを受け入れるべきだ」というおごりがある。
2つめは「相手は意図的に手を洗わないのだから、本人の気持ち一つで手を洗うことができる」と考えている点。
まず1番目は、消防団内で意見を統一し「トイレに行ったら必ず手を洗うべき」というルールを作るしかない。
ルールができれば、それは個人の嗜好ではなく、みんなの取り決めになり、手を洗いたくない人もそれに従う義務を負う。
ただ「トイレに行ったら必ず手を洗うべき」というルールを策定しようとすれば、猛烈に反対する人たちが現れる。
もしルールができなければ、手を洗わない彼らの勝利であり、こちらは彼らに手を洗わせることはできない。
またウンコがついた手で消防器具をさわり消防器具を汚せば、こういった議論も出てくるが、トイレで手を洗わない人たちでも、ウンコが手についた時はちゃんと洗うので、目に見える問題は起こらない。
目に見える問題が起こらなければ、個人の裁量の範囲にしておくのが、人間関係では一番無難な方法でもある。
実際、私の所属した消防団ではこの無難な方法をとっていた。
次に2番目。実はこちらの方がやっかいだ。
トイレで普通に手を洗うことのできる人から見れば、トイレで手を洗わない人は悪意で手を洗っていないように見える。
しかし、トイレで手を洗わない人は、脳の構造が不潔適応型になってしまっているため、自然な状態では手を洗えない。
彼にとってオシッコしたぐらいで手を洗うのは、常に意識し、多大な労力を費やして行う行為である。
彼が手を洗わずにトイレから出て来た時、注意すると、きょとんとして言う。
「あっ。洗うの忘れていた」
いやいや忘れるものなのだろうか?
手を洗わないと気持ち悪くてしかたないだろ。
脳の構造が根本的に違う。
自分にとっては自然にできることでも、相手にとっては大変なこと。
それは個人の考え云々ではなく、脳の構造の問題であり、彼が「俺は不潔人間になるぞ」と誓い、自らの意思で不潔人間になったわけではない。
ただここのところを理解したくない人は多く、それがためトラブルがたえない。
ガミガミ言っても、言われた方にしてみたら、なんともならない。
なんともならないので怒るしかない。
怒れば「なんでおまえは悪いところを指摘され、なおそうとするのではなく、怒るのか?」とキレられ、さらに叱責が激化する。
何も言わなけば言わないで、つきまとっては罵倒する。
それで言われる方は精神的にまいってしまい、その人と一緒にいれなくなる。
家族、職場、消防団、人間の集団はどこでもこうやって崩壊していく。
注意する人は「私の言うことができないのは、この人は悪意で私を困らせようとしているからだ」と考える。
でも、わざわざ人を困らせようと悪意でする人などほとんどいない。
誰もが、しっかりやろう。みんなの役に立ちたい。と考えている。
結局、人間の脳の構造の違いから、与えられた能力に違いがでているにすぎない。
注意している人にしても、苦手なことはやはりできない。
それで彼に彼ができないことを指摘すると、はぐらかしたり無視したり、やっていることは彼が罵倒している相手と同じだ。
誰だって、できないことはできない。ただ人それぞれできないことに違いがあるだけだ。
でも人がグチグチ言うのは、論理的に考えて言うのではなく、感情的にムカつくから言うのであり、これまた心が苦しいから言うのだ。
私が不潔な行為を見て、気持ち悪くてしかたなくなるのと同じ。
そこをぐっとこらえるとストレスがたまる。
私は何度も仕事を続けられないと悩んだことがある。
その原因の大半は仕事が忙しいことでも困難なことでもなく、脳の構造の違いによる能力の偏在から起こる他人とのいざこざだった。
お互いストレスをためながら、がまんしてやっていくしかないのが人間。
人と人との距離って、本当、大切だと思う。
でも、世の中には自分が絶対正しいと考える人や、自分のイライラの解消に理屈をつけ正当化し「言われてもなおさないのは悪意から」と考え、できない人を憎む人もいる。
以前、大学時代の友人の一人がグチグチ言って来た。
「仕事ができないのにがんばらない。そんなヤツが職場にいて本当に怒れる」
「なぜ彼ががんばらないと思えるの?」
「結果を出さないから。結果が出ないのはがんばっていないから」
「がんばったって結果が出ない人はいるよ」
「がんばれば結果が出る。結果が出ないのはがんばっていないから。俺はみんなががんばっているのにがんばらないヤツは憎い。俺はがんばらないヤツが許せない」
彼とは何か一緒に仕事をするわけではない、遊びだけの友なので、友人としていられた。
彼とは一緒に仕事をしたくはない。
そこまで親しい友達ではないので言ってはいないが、心の中で思ったものだ。
「その人だってね。悪意でそうしているわけではないんだよ。彼の生き方が自分と違うから怠けているとか言ってもねぇ。そもそも考え方は人それぞれ。俺が正しくおまえが間違っていると考えているあんた自身おかしいよ。誰だって得意、不得意がある。あんただってできないことはいくらでもあり、そのたびに照れ笑いしてごまかしてきたじゃないか?なのに他人は許せないって。それでブチ切れて。おまえってさぁ、いったい何様のつもり?」
今はたまたま職場でこういう人と一緒ではないから助かっているが、もしまた一緒になったら、どう対処していけばいいのか悩んでしまう。
コロナ禍でマスクの強要がみられる。
世の中にはどうしてもマスクが苦手な人もいるが、それは本人の心ばえの問題にされ、マスクをしないと「悪意でマスクをしていない」ととらえられ攻撃される。
がんばればマスクは苦痛ではなくなる。できないのは、やる気がないから。
口まわりの皮膚が過敏で、マスクのため皮膚荒れに苦しむ人もいる。
やる気云々の問題ではないのだが、人は心ひとつでなんでもできると考える人に、そのことは伝わらない。
マスクが苦手な人は、あわれなものである。
■子どもがマスクどうしても苦手…学校に事情伝えるには?
(朝日新聞デジタル - 07月05日 18:48)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=6146077
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