日本語では主語を省略して話してしまうため、日本人は自分の意見を主張をする時、意識せずとも「これは万人が従うべき当然の理。こんなことも知らないおまえは愚か」といったニュアンスで話してしまいがち。
そのため違う意見を持った者同士が話すと、ケンカになってしまう。
そこで、自分が話す時も、頭の中で文章の頭に「私」をつけ、相手の話を聞く時も文章の頭に「私」をつけたらどうだろうか?
自分の主張をする時は、自分はそれを正しいと考えているので、頭に「事実」とか「あたりまえのこと」をつけてしまいたいのだが、よくよく考えてみれば、神ではない自分に「これは万人が従うべき当然の理」など断言できるはずはない。
相手の話を聞く時も、相手は「万人が従うべき当然の理」のつもりで話しているだろうが、こちらとしては主語を「私」に置き換え「その人はそう思う」と置き換える。
そうすれば相手の意見に対し、従うか反発するかの2択ではなく「この人はこういう考えなんだな」と感じ、従うわけでもなく、反発するわけでもない、第三の選択ができる。
ただ世の中には口では「それはあなたの意見ですね」と言う人がいるが、この言葉には「あなたは愚かだからそんな間違えたことを考えている」というニュアンスがある。
だから受け答えとしては、あなたがどうだではなく、純粋に自分がどうだで考える。
「私はそういう風に考えたことはないですね」
心の中では「おまえは間違っている」と思うが、考えてみれば、「おまえは間違っている」と言えるのは絶対の真理を知っている存在だけであり、やはり神ではない人にそんなことが言えるわけがない。
結局、それは間違えているというより、自分はそんな風に考えたことがないだけなのだ。
英語で話すと常に主語を意識しなくてはならないので、自然と「自分の意見」との意識が芽生える。
日本では長らく万人に共通する慣習法が絶対の真理として受け継がれて来たため、誰もがそれを持ち以心伝心で物事が進んだ。
その慣習法に照らし合わせ、意見をいうものだから、基本的にその人の意見はその人の考えではなく、慣習法に従っているかどうかで主張した。
しかし、近年になり、それら慣習法が否定され、それぞれ個人の意見を言うようになったのだが、それがすっぽり頭の中の慣習法の位置に自分の意見が入ってしまった。
そこで自分の意見を「絶対正しい慣習法」として言ってしまう。
また相手の意見もそのように考えてしまう。
そのため、精神的につらいし、またトラブルが絶えない。
私たちキリスト教徒なら、私たち信者の中では聖書が絶対的な基準で、他は自分の意見となる。
でも宗教を持たない日本人では、自分の意見が絶対的な真理となってしまいがち。そのため自分の意見は自分の意見ではなく、万人が認めるべき正しい意見となってしまう。
真理と自分の意見を分けトラブルを避けるため、信仰を持つことは必要だ。
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