私の嫌な思い出に、中学生時代、金銭を強奪(カツアゲ)されたことがある。
体育の授業の後の着替えの時、悪童がからんで来て、私の足を蹴り「1,000円を貸せ」と言って来た。
まわりの誰もが見てみぬふり。私は怖くてたまらず、彼に1,000円を差し出した。
もちろんそのお金が返って来ることはなかった。
その思い出が今でも私を苦しめる。
私をカツアゲした男の不幸を願っても、そう都合よく彼が不幸になるわけではない。
復讐はその時しかできない。
復讐の機会を失えば、その後、延々と自分が苦しむこととなる。
嫌なことをされたら、その都度こまめに復讐する。
恥も外聞もかなぐり捨て、卑怯と言われようが、あらゆる手段で相手にダメージを与える。
「人を許すことは素晴らしい」と言うのは、自分を大切にしない、また自分の人生の瞬間瞬間を真剣に生きれない人間の言う言葉だ。
また、本当は行動するのが怖いため、そういう綺麗事を言っていることが多い。
私は福祉の仕事についている期間が長いため、いろいろ困窮した人たちと接してきた。
困窮する人達に共通することは、世の中の綺麗事を自分の行動の逃げに使ってしまっていることだ。
「嫌なことがあっても、今耐えれば、将来はよくなる」
そういう人で将来よくなった人を見たことはない。
嫌なことを耐えれば、その嫌なことが延々と続き、将来も暗いものとなる。
「行動すれば将来を失う」と思えど、嫌なことを嫌なままで放置せず行動を起こせば、将来は今より少しはマシなものとなる。
「やさしい」は「優しい」と書く。
本当の「やさしい」は「優れた者」だけに与えられた特権であり、一般に「やさしい」と言われた時の「やさしい」とは違う。
一般的な意味での「やさしい」とは、自分を大切にできない人間の逃げの態度でしかない。
私は他人にやさしくない人間でありたい。
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