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2019年11月11日19:23

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別府/キャンプ・チッカマウガ



【別府/キャンプ・チッカマウガ】


自分が青山小学校の多分高学年だった頃
校庭山側の石の滑り台みたいなとこで
放課後遊んでたとき

なぜか外人の男が2〜3人入ってきて
ガイドブックかパンフレットに載った別府大仏の写真を見せてきて
指差して何か言っている

(それを思い出して別府大仏を調べたんですが)

当然言葉は分からないが道を尋ねているのは分かるから
言葉で説明できないから先に立って連れて行った

まぁラグビーWCでも日本人のおもてなしエピソードにそんなのはよくありますが
プチ感動したのかチューインガムをくれた

まぁ戦後のギブミーチョコレートを思い出して
チョコないからガムくれたのかも知れないけど

その頃の別府には毎年米艦が寄航してたような記事を読んだ記憶があるから
それでその外人が来たんだなと思っていて
米艦寄航の資料を探していたら見つからない

そんなこんなで色んな資料を拾ってしまったわけです


住んでいた西野口に今あるグリーンスポットていう喫茶店の前の道路が
当時「ヒロバ」って呼んでいた遊び場で
そのすぐ上は自衛隊で行き止まりだった

今の「別府公園」ですが

古今東西、別府公園のお話を一席


******************


別府歴史資料デジタルアーカイブ<トップ<大別府公園計画
http://www.beppu.biz/kongetu4.htm

より地図と本文を引用(『』内)

『この書は、昭和12年(1937)京都大学 関口鉄太郎教授が別府市の依頼により編集した「別府公園計画」である。
亀川・朝日・石垣が別府市に合併された直後、「大別府」とよばれた頃の別府公園の計画書である。』

(中略)

『昭和12年1937 別府国際温泉観光大博覧会の主会場
※この時の別府公園の面積は35,088屐別10,640坪)であった。(昭和12年大別府公園計画)
また、この時の東端、大分県殖産館は美術館として利用された。殖産館は戦時中は、陸軍病院の病棟として使用され、戦後は別府市立青山中学校校舎として使用されたが、昭和28年(1953年)4月1日からは別府市立青山小学校となった。しかし、昭和31年(1956年)2月2日は、この建物は焼失した。』

地図の解像度も悪いのでよく分からないが
「東端」とあるので 今の「山の手小学校」の位置にある
「青山小学校」が 戦後すぐは「青山中学校」だったようだ

「昭和31年消失」とあるので 昭和43年入学の私は
当然ながら立て換わった校舎だったようだ
(今はまた立て換わっているが)


『米軍接収期 昭和21年〜昭和32年 1946〜1957
・別府公園を中心とした各地域は、米軍 基地として接収される。
(キャンプ・チッカマウガ。チッカマウガはチカマウガ戦争で知られるインディアンの呼称。)

左地図 出典:『占領下の別府』 白土康代著 5Pより
(amazonはココ ※アマゾンで出典資料買えるらしい)

この地図は
昭和30年の占領域を
現代の地図に示した図

左図、
灰色部分が接収域

※占領域内の詳細は、ココ(※http://www.beppu.biz/kongetu.img/beppuparknaibumitori.PDF)』


つま昭和21年〜昭和32年(1946〜1957)
別府公園を中心として米軍に接収された地域は

キャンプ・チッカマウガ

と呼ばれていたらしい


初めは1・2枚目の地図の楕円形の部分が同じ場所だと思ったが違うみたい
2枚目の楕円形の右のところが
稲尾和久やスター錦野を輩出した緑ヶ丘高校で

1枚目灰色部分の中ほどにぽっかり空く白い四角い所じゃないかなと思う
そうするとキャンプ・チッカマウガの位置が
1枚目灰色部分の接収地と重なってくるし



オオイタデジタルブック「別府恋歌」
http://www.nan-nan.jp/lib/bepkoi023a01.pdf#search='%E5%88%A5%E5%BA%9C+%E7%B1%B3%E5%85%B5+%E5%85%A5%E6%B8%AF'

『井上義夫。七十八歳。戦後、別府に進駐した米軍の駐屯地「キャンプ・チッカマウガ」で働いた元専属ドライバー。
「あそこに勤めていた日本人は皆、生きるために必死だった…」
(中略)
やがて車両を管理するモータープールへ。別府湾に艦船が入港するたび、軍のライセンスで車を運転、「GI」たちを送迎した。
「富士見通りを上がった所にトラックゲートがあってな。MP(憲兵)に証明カードを見せて入ると、そこから右側通行。自足五マイル(八キロ)で走らないけんかった」
キャンプの中はアメリカだった。バー、クラブ、レストラン、ボウリンング場、ジム…。
「そらもう、何でもあった。物資が乏しい市民にとっちゃあ、夢の場所やった」
五十七年に接収解除。約三千人の米兵は撤収した。
「進駐軍がいたから地域経済が潤った。だから別府は発展できたんやないかな」
湯の街から”リトル・アメリカ”が消えて半世紀。兵舎を見下ろしていた老松たちは、今も別府公園に根を張っている。』


の記述にある
「富士見通りを上がった所にトラックゲートがあってな…」にもあう


でも、別府緑ヶ丘高校が
現在の別府市役所の上辺りだったとしての話なのですが

どうも緑ヶ丘高校のあった場所に確信ないので
どうでしょうか?

(付録写真あり)



【補足と訂正】

自分の思い込みと読解力のなさにガクブルです

某先輩のご指摘により

緑ヶ丘高校は現在の別府美術館のところ(市役所の山側隣接地)

2番目の地図のチャップマンフィールドは 油屋熊八の大玉のあった現ビーコンプラザの位置

だそうです

ということで 2番目の地図は180°逆向きで

1番目と2番目の地図の楕円の部分は同じものでした

以上のように訂正させていただきます



https://atelier108.ocnk.net/data/atelier108/image/BeppuKaitei-1.jpg

https://atelier108.ocnk.net/data/atelier108/image/BeppuKaitei-2.jpg

https://atelier108.ocnk.net/data/atelier108/image/BeppuKaitei-3.jpg


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コメント

  • mixiユーザー

    mixiユーザー2019年11月12日 06:46
    福ニャンさん、
    何だかんだと忙しい中にも関わらず過去の資料に基づく調べものにも時間を費やして故郷と自分の関わりを納得いくまでとことん突き止めたい気持ちには頭が下がります。
    インフラ開発や区画整理で見た目が変わろうとも、自分を育ててくれた環境や人々はそのまま懐かしく記憶に残っていますよね。
    私は西九州道インターが我が家のお墓のある山の裏側まで伸びたので「今ここにいますよ。」って呼びかけながら反対側にある見えないお墓に手を合わせて通り過ぎています。
    それから市内に入ると小学生の頃遊んだ友達の顔や四季の風景の中の自分が甦ってきます。
    子供の足でも30 分はかかった友達の家は暗い杉林を抜けたところに在りましたがその頃は怖くもなんともなかった。
    それにしてもその時代の親は子供達を自然の中に放し飼い?で伸び伸びと育てていたのかもしれませんね。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2019年11月12日 13:19
    > mixiユーザー 年のせいですかね?
    父が大阪 大分 福岡 熊本等、自分が住んだ地の郷土史の本を集めていた気持ちがわかってきました。
    特に生まれ故郷は 小さいときの思い出があるからなおさらですね。
    色々思い出しながらやってます!

mixiユーザー

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