mixiユーザー(id:67238120)

2021年02月21日16:38

36 view

◆弓削の道鏡 ゆげのどうきょう  下半身で出世した坊さん

◆弓削の道鏡 ゆげのどうきょう (?〜七七二)
http://kamanasi4321.livedoor.blog/archives/1367758.html
加藤恵氏著(旅行作家)『別冊歴史読本』
「目で見る日本の英雄百五人」2176・10創刊号 一部加筆
その円墳は道鏡の塚ということであった。真偽のほどはわからない。しかし、『続日本紀』によると、道鏡は宝亀三年(七七二)四月七日、下野薬師寺で死亡したので、庶民の礼をもって葬られたという。が、その葬地は不明である。円墳がある安国寺は薬師寺戒壇院址に建てられたというから、その円墳が道鏡の塚であって一向に差支えないと思う。
下野の薬師寺にはいささかのゆかりがあるので、私は薬師寺に流されてきた弓削道鏡には、ずいぶんと前から興味をもっていた。
 
◆道鏡     https://ja.wikipedia.org/wiki/道鏡
道鏡(どうきょう、文武天皇4年(700年)? - 宝亀3年4月7日(772年5月13日))は、奈良時代の僧侶。俗姓は弓削氏(弓削連)で、弓削櫛麻呂の子とする系図がある[1]。俗姓から、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも呼ばれる。
 
◆宇佐神託と左遷
https://ja.wikipedia.org/wiki/道鏡#宇佐神託と左遷
大宰主神(だざいのかんづかさ)の中臣習宜阿曽麻呂が宇佐神宮より道鏡を天皇の位につければ天下は泰平になるとの神託があったと伝えた。しかし、和気清麻呂が勅使として参向しこの神託が虚偽であることを上申したため、道鏡が皇位に就くことはなかった。
道鏡塚(下野市の龍興寺)
神護景雲4年(770年)に称徳天皇が崩御すると、道鏡は葬礼の後も僥倖を頼み称徳天皇の御陵を守ったが、神護景雲4年8月21日、造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて下向し、赴任地の下野国で没した。道鏡死去の報は、宝亀3年4月7日(772年5月13日)に下野国から光仁天皇に言上された。道鏡は長年の功労により刑罰を科されることは無かったが、親族4名(弟・弓削浄人とその息子の広方、広田、広津)が捕えられて土佐国に配流された。(以上、「続日本紀」)
庶人として葬られたといい、龍興寺(栃木県下野市)境内に道鏡の墓と伝えられる塚がある。
 
◆道鏡(どうきょう)、称徳天皇と由義宮(ゆげのみや)・西京について
https://www.city.yao.osaka.jp/0000039111.html
道鏡は、河内国若江郡(現在の八尾市の一部)出身の僧で、葛城山などで厳しい修業を積み、修験道や呪術にも優れていて、孝謙上皇(東大寺を建てた聖武天皇と光明皇后の娘)の病気を治したことから重用されるようになりました。
孝謙上皇は、764年に称徳天皇として再び即位し、西大寺や西隆寺を建てたり、百万塔(100万個の木製三重塔)を製作し諸寺に置くなど、仏教を中心とした政治を推し進めました。そして、道鏡は、称徳天皇の引立てにより、766年には、宗教界の最高の位である「法王」となりました。
また、769年に起こった、道鏡を皇位につけようとした宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)神託(しんたく)事件が有名ですが、称徳天皇の道鏡に対する信頼は揺らぐことがありませんでした。なお、この事件の首謀者が誰なのかは諸説あります。
 
◆(下半身で成り上がった!?)「男らしさ」を武器にした怪僧・道鏡
https://rekijin.com/?p=20182     2017/02/24
道鏡(生年不詳)は、物部氏の支族・弓削氏の出と言われています。
俗名は弓削連と言い、出身は河内国(大阪府)でした。
男女の想いは年齢や身分が離れていても燃えるもの。現在も熟年カップルの話題が盛んですが、シニア世代になってから「男らしさ」を武器に朝廷で大出世したお坊さんがいます。その名は道鏡、「日本三大悪人」のひとりとも言われる道鏡の半生に迫ります。
目次 [閉じる]
1.道鏡、遅咲きの朝廷デビュー
2.後世に語り継がれる道鏡の下半身事情
3.下半身で破格の出世!天皇就任も射程に
4.愛する称徳天皇が亡くなり都から追い出される道鏡
 
◆【刀剣ワールド】道鏡 〜孝謙天皇の寵愛を受けた僧〜
https://www.touken-world.jp/tips/44315/
道鏡の弟である弓削浄人(ゆげのきよひと)と大宰府の主神(かんづかさ)の中臣習宜阿曽麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が「道鏡を皇位に就かせれば天下太平になる」という宇佐八幡宮の神託があったと称徳天皇に奏上したのです。
孝謙天皇(こうけんてんのう)は、日本史上6人目の女性天皇です。
孝謙天皇が寵愛した道鏡(どうきょう)は、僧でありながら皇位を狙った悪党として「日本三大悪人」のひとりに数えられています。
目次
孝謙天皇と道鏡との出会い
女帝、孝謙上皇の寵愛を受けて出世した道鏡
皇室を揺るがす大スキャンダルへ
語りつがれる道鏡の不名誉な噂
 
◆弓削道鏡(ゆげのどうきょう)http://kamijimajiten.com/184
 道鏡(どうきょう)は奈良時代に活やくしたおぼうさんです(生年不明〜772年)。河内国若江郡弓削郷(かわちのくにわかえぐんゆげごう)/現在の大阪府八尾市弓削(やおしゆげ))の生まれで、弓削氏の出身であることから、「弓削道鏡(ゆげのどうきょう)」とも呼ばれています。
 道鏡は、女性の天皇であった孝謙上皇(こうけんじょうこう)が病気になったときに、看病して元気にしたため、上皇から大切にされるようになりました。元々はお坊さんでしたが、そうして、政治的な力を持つようになりました。


1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する