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2019年12月16日22:57

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風 の 王 国 五木寛之

  一畝不耕 一所不住

     一生無籍 一心無私

第一部 翔ぶ女

1 仁徳天皇陵

2 二上山
 「ーああ、サヌカイトのでる山ね」
 別名、讃岐岩、《紫蘇耀石》=古代人がヤジリやナイフをつくった黒い安山岩
「二上山からは刃ものを磨ぐ金剛砂、松香石もでる」
「ゴランダムがでる。鋼玉といってダイヤモンドのつぎに値段が高い」
「ゴランダムは赤いのがルビー。青いのがサファイア。みかし、二上山からサファイアがとれた。」
「二上山が火山だった。二千万年前まで沼地だったが大噴火した。トロイデ型の火山。だからいろんな石がでる」



3 「ナムアミダ ホトケノミチヲ ヨブ コトリ アヤシヤ タレカ フタカミノヤマ アヤシヤ タレカ フタカミノヤマ」(老僧「無学」詠)

ーその よう に して せけんし は
やま と さと との あいだ を ながれ
ふこう いっせでん
ふさい いっそうし
いっしょ ふじゅう を むね と し
いっしん むし
めんめんしのぎ の こころ を
せけんし の みち と して ー

ー あの やま は かつらぎ こんごう
この みね は しぎ いこま
あの かわ は やまとがわ
この かわ は いしかわ
かなたに よしの いが うえの
はるかに たんば みの きそじ
きたは はくさん より
みなみ は くまの まで
この やま かわ を みち と して
ながれ て いきた せけんし の
いのち の やま こそ この ふたかみ ー

ー おだけ めだけ の いただき から
かなた に のぞむ たじひむら
その みみはら に そびえ たつ おおやま
ふるくは もずみみはらなかのみささぎ
ちかく は だいせんりょう
いま にんとくりょう と して
おおいなる すがた を のこす
われら いま ここ に つどいて
その やま の おくつき に ねむる
ひちにん を しのび
ち に ふし おがみ なき とも に
その いわれ を かたり つたえ
けんしがり の いわれ を いま ー

 ー たけのうちかいどう は
ふるき ふたかみの けんしみち
たひじ あなむし まむしらの すむ
その けんしみち を きりひらき ー








 「砂いじりは江戸時代にはね、日本人の高尚なたしなみの種だった。立派な塗りのお盆に懐紙ひろげて、爪楊枝と天眼鏡もって、日当たりのいい縁側に座布団ひいて坐る。孫や猫を追いはらって、砂を日光に当ててゆっくり見る。お茶もいいものをそばにおく。そして爪楊枝もってよくさがす。ゆとりある気持と、生活、幸せでないといけない。半日かけて一寸四方くらいをよく見てると、青く光ったものが見えたような気がする。そこに爪楊枝で御意志ぐらいの円を描き、まわりの砂をどける。そしてのんびりと小豆色の砂、まわりから一粒ずつ円の外へ爪楊枝でおしだす。のんびり、のんびり、が大切。一日中やってると、けし粒の半分以下の青く光る六角板状の石が見つかる。うれしいね。ああ、きょう一日しあわせだった、と、背中をのばして大声でどなるんだ。『おーい、サファイヤでたぞー。』って言ってね。これ上品な大人のたのしみ。」

*《鉱物採集フェールド・ガイド/草下英明/草思社》


第二部



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第三部
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21 《箕》ー《箕なおし》
(用途)→穀箕・茶箕・粉箕・チリ箕・雑箕
(素材)→桜皮箕・藤蔓箕・篠竹箕・杉皮箕等(アケビの蔓、藁)
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25 《「 ー山に生き山に死ぬる人びとあり。これ山民なり。里に生き里に死ぬる人びとあり。これを常民なり。山をおりて、里に住まず、里に生きて、山を忘れず、山と里のあわいに流れ、旅に生まれ旅に死ぬるものあり。これ一所不住、一畝不耕の浪民なり。
 山民は骨なり。常民は肉なり。山と里の間を流れる浪民は、血なり、血液なり。血液なき社会は、生ける社会にあらず。浪民は社会の血流なり。生存の証なり。浪民をみずからの内に認めざる社会は、停滞し枯死す。われらは永遠の浪民として社会を放浪し、世に活力と生命とをあたえるものなり。乞行の意義、またここに存す。乞行の遍路、世にいれられざるときには、自然の加工採取物をもって常民の志をうく。これ《セケンシ》の始めなり。山は彼岸なり。里は此岸なり。この二つの世の皮膜を流れ生きるもの、これ《セケンシ》の道なり。われらは統治せず。統治されず。一片の赤心、これを同朋にに捧ぐ。されど人の世、歴史のなかにー(略)」》



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・・・「《ケンシ》の一族だという誇りだけはひそかに守りつづけているの。たとえば、正月三カ日の間、決してお餅を食べない家があるわ。もっとはっきりした家では、正月だけでなく決して餅をつかないし、家におかない。厳格な真宗門徒の家では、昔から今に至るまで正月の門松を立てたりしないそうだけど、わたしたちの仲間にも正月の《しめ飾り》を張らない家が多いのよ。米を食うと体が泥腐る、などと昔の《ケンシ》は言い伝えていたらしいわ。わたしたち《フタカミ講》の講中の家は、大正時代までは決して米を食べなかったんですって」

・・・「山野でとれる雑穀類を食べたの。ひえ、あわ、きび、とち、そば、それに大豆、小豆などの豆類や山菜、また里芋、甘藷、山芋、その他の根菜類が常食だったのよ。それらの材料を、うどん、そばがき、雑炊、煮物、汁、乾物などにして使うのです。現在でも講に属する家庭では、正月三カ日と、五、十のつく日は必ずそれらの雑穀類だけですごしているわ」

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 「うつそみの 人にある我れや 明日よりは
二上山を 弟(いろ)背(ぜ)と我れ見むー」
大津の皇子 姉
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あとがき



解説          木本 至
        (昭和六十三年三月、評論家)

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