mixiユーザー(id:67211516)

2019年12月15日14:09

39 view

ツキを呼ぶ魔法の言葉 五日市 剛 講 演…3

 不良少女の家庭教師

 僕は宮城県内の中学校を出たあと、同じ県内にある高専(国立の工業高等専門学校)に入学しました。
 最初から、ひとりでアパート住まいをしまして、けっこう自由で楽しかったんですが、洗濯や食事の用意は面倒でしたね。洗濯が面倒なもんですから、下着や靴下以外は近くのクリーニング屋さんに前部持って行きましてね、だからほとんど毎日通っていました。そのクリーニング屋のおばさん、良い人でね。僕が行くといつも、
「五日市君、いつも来てくれてありがとう。おにぎり一個余っているんだけど食べない?このみかん、ちょっと腐りかけているけど、どう?」
とかね。温かいおばさんでね。
 僕が高専二年のある日、そのおばさんが真剣な顔をして、
「五日市君、お願いがあるの。家庭教師やってくれない?」
「そんな、僕、人の勉強なんてみたことないし、自分の勉強だけで精一杯だよ」
「中三になったばかりの女の子なんだけどね」
とおばさんが言ったもんですから、ビビッときまして、
「はい、やりま〜す!」
という具合で、決まり。そりゃ〜それまで女の子には縁がありませんでしたから、ワクワクドキドキ。断るわけないですよね。それでまずは、その女の子のお母さんと喫茶店で会うことにしました。
 話をいろいろ伺って分かったのですが、実はその子というのは、筋金入りの不良少女なんですね。それまで埼玉県のある市に住んでいて、中学二年の終わりまでに、煙草、シンナー、窃盗、恐喝などなど、落ちるとこまで落ちていって。今でこそ茶髪は当たり前な風潮ですけど、当時彼女は、はるかにその上をいく真っ赤なヘアーで超クルクルパーマだったんですね。中学一、二年なのに。ほとんど学校に行ってなくて、暴走族の連中と遊びまわり、売春で補導されたこともあったそうです。それらが原因で少年院を何度か往復した子なんですね。大きな問題が起こるたびに中学を転々として、もうこれ以上行くところがな〜い、という特殊な事情で宮城県にお母さんと一緒にやって来たのです。
 お母さんは、クリーニング屋さんのおばさんと昔からの知り合いだったらしく、そのおばさんを頼って、わらにもすがる思いで宮城県に来たようなんですね。二人は小さい借家を借りて、もう一度ゼロからの出発。お父さんはもちろん仕事があるから、埼玉の家に残って単身赴任みたいな形になっちゃったんですね。僕はそのお母さんに言われました。
「うちの娘は高校に入れないのは分かっています。一人っ子ですし、良い友達もまだいませんので、どうか話し相手になってくれませんか」
 何が何でも成績を上げて高校に入れて欲しいと言われるんじゃないかと思っていただけに、気が少し楽になりましたね。
 その子ね。会ってみると、とっても良い子なんですよ。僕には妹がいないせいか、本当の妹のような感じでね。歳は二つ違い。僕は高専の二年生、彼女は中学三年生。僕のにとっては本当に良い子なんですよ。僕の言うことは大抵聞いてくれました。例えば、彼女、ラジオの深夜放送をよく聴いていたんですけど、
「深夜放送はあまり良くないぞ。受験生だからなあ、夜遅くまでラジオを聴くのはできるだけやめようね」
と言うと、
「そうだね」
と言ってすぐにやめるしね。漫画本もよく読んでいましたが、
「あのさ、漫画本読んでもかまわないけど、少しずつ減らしていこうか。宿題とか、いろいろやることもあるもんな」と言うと、
「は〜い」
と言ってそのうち全く読まなくなったんですね。そういう僕は思いっきり読んでいましたけど。僕にはとっても素直でよい子なんですね。
 でも、なかなか直らないクセのようなものがあったんですね。何かというと、万引きなんですよ。ある日、僕が彼女の部屋に入ると、彼女は机の上にかばんを置いて、中から化粧品をパカパカ取り出しましてね。
「これね、今日の収穫よ」
「おまえ、またやったのか!」
「はいっ、これ、牛革の財布、先生へのプレゼント」
「こまった奴だな〜。今度やったら、承知しないぞ」
と言いながら、財布をチャッカリ頂いちゃいました前から欲しかったんだ、ラッキー!いやはや僕も同罪ですね。万引きはその後、徐々にやらなくなりました。
 彼女は勉強するにも予備知識がほとんど何もないので、宿題を出しても全くできないんですよ。宮城に来る前は、あまり学校へ行っていなかったからしょうがないですよね。僕と一緒のときしか勉強が進まない状況でした。例えば、数学の勉強のときにね。
「2ー1」は分かるんです。だけど、これが「-1+2」になると分からない。答えは同じでしょう。これを分からせるのに時間がかかりましたね。それから、理科の天体。彼女は自信を持って、
「太陽はね、北から昇って南に沈むの」
と言うのですが、
「それはちょっと違うんじゃないかな?」
と僕が言うと、
「あっ、そうそう、天才バカボンの歌であったわね。♪西から昇ったお日様が、東にしず〜む♪」
という具合です。別に彼女はふざけているわけではなくて、本当に知らないのです。その時点での知識レベルは、恐らく小学生の低学年くらいかもしれません。だけど、唯一救われたのは、彼女と僕はウマが合っていた、ということです。

 夏休みが来ました。夏休みというのは、受験生にとっては一つの分岐点なんですね。よい方向にも悪い方向にも行く大事な時ですよね。彼女は、どんな友人にも結構気持を左右されやすい性格なのです。幸いにも、彼女が転校した学校の環境はとても良くて、あまり道を外れた生徒はいなかったんですね。彼女は転校と同時に髪を(赤いパーマから)自然な黒のストレートに戻していましたから、外観上も普通の女の子と変わりなく、特に目立つことはありませんでした。成績がビリという点では目立っていたかもしれませんね。とにかく、夏休みということで、何かと心配だったものですから、彼女の家にはできるだけ頻繁に通いました。それだけ「彼女をもっとよい方向に導きたい」という気持が強かったわけです。いつもは、夕方におじゃまし、まず夕食をご馳走になって、その後彼女の勉強をみて、だいたい夜十時頃に帰るというパターンでした。
 夏休みのある日、こんなことがありました。勉強をみていて、ハッとして時計を見たら夜中の二時を回っていたんですよ。
「うわ〜、お母さん、ごめんなさい、こんなに遅くなっちゃって、じゃあ僕、帰ります!」
と言うと、お母さんが、
「先生も夏休みでしょう。今晩泊まっていったらどうです?」
と言うので、
「ん〜、そうですね。じゃあ、今日は泊めてもらいますか」
ということで、泊めていただくことになりました。お風呂をいただいて、さて寝ようかなぁと思いましたら、お母さんが気を利かせて、彼女のベッドの隣に布団を敷いてくれてたんですね。さすがにドキッ!としました。
 彼女と僕はそれぞれベッドと布団の中に入って、電気を消したんですが、お互いなかなか眠れません。勉強を教える時はいつも二人きりではありますが、こんな変な緊張をしたことなんてなかったですね。しばらく、ちょっとドキドキしていました。すると、彼女も眠れないので僕にいろんなことを言ってくるんですね。
「あのね、中一のときにね、こんな事があったんだ」
「少年院という所はね、こういう所なんだよ」
「中二のときに、学校のトイレでこういうリンチを受けたんだ。悔しかった。誰も助けてくれなかった」
「宮城に来る前はね、こんな男性と付き合っていたの」
さらに先に進むと、
「こういう人と深い関係になっちゃったの」
 何もかもびっくりする話ばかり。僕の体は石みたいにガチガチになって、彼女に対して相づちしか打てませんでした。皆さん、「はひふへほの相づち」って知っていますか?。「は〜、ひ〜、ふ〜、へ〜、ほ〜」それしか言えなかったんですね。中でも一番驚いた話は、
「○○○という偉い人とも・・・したの」
ということなんですよ。
「そ、そんなこと、あるわけないだろう!何かの間違いだろう」
と言いましたら、
「いつもは、暴走族の仲間にお客を紹介されて、モーテルに行くのね。ある日、お金を払わずに逃げたお客がいてね、とっても悔しい思いをしたの。それでね、その次のお客の時なんだけどね。お客がお風呂に入っている間に背広のポケットから財布をとって、逃げられてもいいようにと一万円引き抜いたんだ。その時、財布の中に同じ名刺がたくさんあったの。あ〜、この人の名刺なんだな〜と思って、何気なく一枚取ってね。次の日、自宅に帰った後に、しげしげ見ていたら、そういう肩書きがあったのよ」

 彼女は淡々と僕に語ってくれました。でも、こうした話、誰にでも言えることではありません。僕は、彼女の話を聞いて「この世の中、いったいどうなっているんだ」と真剣に悩みましたね。

 考えてみると、僕たちだって人に話せないことを自分の中に閉じこめてしまうことってありますよね。それがどんどん蓄積されて限界に近づくと、悶々として頭がおかしくなってくる。そんなとき、信頼できる人に話すことによって「救われる」ことがあるじゃないですか。ご主人に言って、あるいは兄弟に言って、「あ〜そう。分かるよ、お前の気持ち」と言われただけで、救われるもんですよね。彼女にはね、そんな話を聞いてくれる相手がず〜といなかったんじゃないかな。親にはこんな話言えないでしょう。兄弟はいないし、友達だって、ろくな友達はいなかった。学校の先生にだって言えない。だから、僕しかいなかったと思いますよ。結局、朝まで話していました。彼女は、それからというもの、すご〜く生き生きしちゃってね。まるで生まれ変わったみたいでした。

 九月に入って二学期が始まると、すぐに実力試験がありました。その結果が数日後に出て、彼女の点数は五教科五百点満点中で百点ちょっと。だから、一教科の平均が二十点ぐらい。周りと比較すれば、相変わらずビリですよ。ビリだけれども、それまで五百点満点中、十点か二十点くらいしか取れなかった彼女が、自分の力で、百点取れたわけですよ。
「お前、やればできるじゃないか!」
「うんっ!」
と彼女はと〜ても大喜び、ほんとうに嬉しそうでした。
そりゃ〜確かにそれでも彼女はビリです。でも、人との比較なんてどうだっていいじゃないですか。『本人がどれだけ成長したか』が何より大事ですよね。そうでしょ。それが一番大事。それから彼女はますます変わりましたね。もう〜勉強が楽しくなっちゃって。夏休みまでは、僕と一緒のときしか勉強できなかったのに、、自分一人でがむしゃらにやるようになりました。
「英語の単語、頑張って覚えるぞ!」
と言って、新聞の広告紙の裏に一所懸命単語を書いて、家のあちこちに貼りまくりましてね。トイレにまで貼って、
「おしっこ一回する間に単語一つ覚えるぞ!」
と意気込みがスゴイ。本当にすごいんですよ。日曜日なんて、御飯を食べている時間以外はほとんど勉強するようになりました。まいりましたね。人間、ここまで変わるものなんでしょうか。恐らく、彼女の成績は、十一月か十二月にかけて一番伸びたのではと思います。

 冬休みが来ました。僕は毎日彼女の家に行きましたね。これが本当の二人三脚っていうのかな、なんて思いたくなるくらい、息が合っていましたね。そして、冬休みが開け、中学生活最後の実力試験があったんですね。それは、宮城県内の中学三年生が全員受ける民間業者の模擬試験なんです。何万人と受けて、自分のその時点での実力を確認する試験なのです。その試験結果が二週間後に出ました。ねえ皆さん、その試験で彼女は何点採ったと思いますか?僕はいまだに覚えているんですけど、(五百点満点中)四百六十八点採ったんです。信じられます?当時、業者の試験は本当に難しかったんですよ。四百点採るだけでも至難の業。それを四百六十八点も。彼女の学校はマンモス校なんですが、男女合わせてナント二番。県内でも女子の部門でベスト五十の中に入りました。ウソみたいでしょう。でも本当なんです。こりゃ〜彼女、ムチャクチャ喜ぶだろうなと思うじゃないですか。ところが、彼女はしくしく泣いていましてね。
「誰も信じてくれないの」
それもそのはずでして、困ったことにその業者の試験というのは土日にあって、つまり、土曜日に受けた学校と日曜日受けた学校があったわけです。彼女の学校は日曜日だったものですから、
「お前、土曜日受けた学校の連中に聞いたんだろう」と何人かのクラスメートに言われたそうですね。おまけに、学校の教頭先生も家に電話をかけてきまして、
「お母さん、いったいこれはどういうことですか。こんなこと、あるわけないでしょう」
と最初から疑って、お叱りの電話です。そんなアホな。それでも教育者か。なんで彼女を信用しないんだ。彼女はね、自分の力でその点数を採ったんです。最近の彼女を見ていれば分かるでしょう。どうしてそんなことが分からないのかなあ、と思いましてね。
「もう泣くなよ。こうなったら難関の学校に合格しちゃってさ、みんなを見返してやろうぜ!」
と彼女に言ったんです。

 当時の宮城県の中学生は、できれば公立高校に入りたいと思っていたんですね。授業料も安いしね。入試のシステムとしては、私立高校の試験が先にあって、その後しばらくしてから公立高校の入試があります。公立高校が本命でも、必ず私立を受験して合格を確かめてから公立を受ける生徒がほとんどなんですね。そこでまず、私立に願書を出す時期になりまして、お母さんと話をしていると、
「うちの娘は、私立の高校を受けてもムダだと言われまして」
「はあ?どうしてですか?」と聞くと、
「学校の担任がそう言いました」
 こりゃいったい、どういうことなんのだろうと思い、僕は彼女の中学校まで自転車で吹っ飛んで行きました。そして担任の先生をつかまえて、
「どういうことなんですか?」
と聞いたんですね。するとその先生は、
「あの子はね、過去に相当問題を起こしているでしょう。実は・・・・・」
と話しました。その先生は、はっきりと言いませんでしたが、どうやら、県内のいくつかの私立高校では受験生に対するブラックリストが作成されてあるようでして、過去に大きな問題を起こした生徒を受け付けないか、それに近い処置をとる工夫をしているとのことでした。だから、たとえ担任の先生が内申書を良く書いても、その内申書はそのままゴミ箱行きになってしまうだろう、とのことです。だから、入試は受けさせてもらえるけど、絶対に受からない。「じゃー、いったいどうすればいいのですか?彼女は一生懸命勉強して、ここまで這い上がって来たんですよ。どん底から立ち直ったんですよ!」
「そうだね、ぜひ何とかしたいね。・・・ひとつ道があるとすれば、公立の中でも一番レベルが高い学校、宮城第一女子高等学校(通称、宮城一女)。ここを受験してはどうかな。この学校は、ほとんど一発勝負。内申書をあまり考慮しないはず。どうかな?」
 宮城一女というと、女子が受験する高校の中では、当時県内のみならず東北でもトップ。こんな学校、はたして彼女が受かるんだろうか?でも、ここしかない、ということであれば挑戦するしかない。

 そして三月に入り、入試がやって来ました。その日、僕はアパートにいましたが、朝からずっとそわそわ。落ち着かなかったですね。夕方、入試が終わり、ようやく彼女から僕の所に電話がかかってきました。すると、電話の向こうで彼女は・・・・・・泣いていました。
「どうだった?」
と聞いても泣くばかり。
「どうだったんだよ」
と静かに聞くと、彼女はポツリと、
「ダメだった」
と言うのです。
「どうしてなんだ。あれほど勉強したじゃないか。どうしてなんだよ」
と彼女に言うと、
「分かる問題も出たけど、・・・・・ダメだった」


 彼女はね、試験会場に着くと、張り詰めた雰囲気にすっかり飲み込まれてしまったようなんですね。自分の席の周りを見てみると、どの子も頭の良さそうな子ばかり。「何で私みたいなバカが、こんなところに座っているのかしら」と何度も思ったそうです。しかも、その会場にいる受験生は、みんなそれぞれ私立の高校を受けて合格していて、いざというときの行き先を確保してこの試験に臨んでいる。でも、彼女には何もない。まさしく背水の陣ですよね。
「ああ、落ちたら・・・私どうするんだろう。定時制に行くのかなあ。浪人するのかなあ。それとも就職して働くのかなあ。どれも自信ないなあ〜。だけど、こんなすごい学校、受かるわけないんだよなあ・・・」
 そう思えば思うほどふるえが止まらなくなって、頭が真っ白になって、はっと気が付いたら、試験はもう終わっていた、と言うのです。
「でも大丈夫だよ。合格発表は五日後だろう。受かるよ、絶対に」と慰めても、
「全然なにも書かなかったのに、受かるわけないじゃないの」
と言って大声で泣くしね。まぁ、僕なりに彼女を力づけて受話器を置いたんですが、置いた途端に力が抜けて、その場にうずくまってしまって、三時間くらい起き上がれなかったんですね。
 そのとき、それまで彼女と歩んできた一年間の思い出がスーとよぎりましてね。短い時間だったけど、彼女はすっかり立ち直ってくれて、こんなすごい高校を受験できる水準にまで到達できて。そんなこと、当初は想像すらできませんでしたけど、そりゃ〜頑張ったもんな。だけど、たった一回だけの試験で、彼女の努力が報われないなんてやりきれないよなぁ、と思いました。思えば思うほど、悔し涙が出てきて・・・・。
 合格発表までの数日間、地獄のような日々でしたね。毎日僕は、彼女に会いに行くのですが、出てくるのはお母さんばかり。本人はショックで落ちこみ、部屋に閉じこもって食事すら満足に取っていない状態でした。
 合格発表の日が来ました。その日は大雨でした。彼女は友達に誘われたらしいのですが、自分一人で電車に乗って、そっと隠れるようにして結果を見に行ったんですね。午後三時に合格発表があって、三時十分頃でしたか、電話が鳴ったんですね。電話の向こうはひどく泣いている声。すぐに彼女だと分かりました。
「どうだった?」
と聞いても、泣く一方なんですね。ずっとその状態で、きりがないなぁと思って。それでね、こんなときに彼女に言おうと思って準備してきた言葉をそっと伝えたんですね。
「来年、もう一度、一緒に挑戦しようか」
ってね。そしたら彼女、泣きながら、
「私の番号があったの。受かってたよ!」
(五日市氏は涙ぐむ)
 すみません、思い出しちゃいました。彼女ね、家に帰らないで、雨の中、直接僕のところに来ましてね。まだ泣いているんですよ。もう、抱き合って喜びましたね。
 それからが結構大変。彼女のお父さんがもう狂ったように喜びましてね。埼玉から僕の汚いアパートまで飛んできまして、土下座して、おでこを床にくっつけまして、
「先生、本当にありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。・・・・・」
「そんな、お父さん。頭を上げて下さいよ」
もう、すごく喜びましてね。ところで、後で分かってことなんですが、彼女ね、入試、ビリだったんですよ。つまり、ビリのグループに入っていて、もう一点足りなければ落ちていたんですね。すれすれセーフ。でも、いいじゃないですか。ビリだってトップだって合格に変わりないですよね。

 彼女はその後、勉強一筋。よく勉強しましたよ。高校三年くらいから成績が上位のグループに安定しまして、思い切って地元の国立大学を受験したんですね。もちろん現役で合格しました。すごいですね。その後、大学院の修士課程に進学し、修了後は宮城県内の私立中学校の先生になりました。生徒や父兄から人気があり、生き生きと生徒の指導を行っているんですね。


 ところで、彼女が高校を卒業する頃、僕も五年間の高専生活をちょうど終えましてね。。高専の上には技術科大学という国立の大学が全国に二校(豊橋と長崎)ありまして、僕は豊橋の大学三年生に推薦で編入することになっていました。それで、仙台を離れる日、新幹線のプラットホームまで彼女は見送りに来てくれたんですが、もう、彼女、泣いてね。ず〜と泣いてる。「泣くなよ」と言っても泣くんですね。その時の彼女の表情が、いまだに僕の脳裏に焼き付いています。


 それから豊橋の大学の寮の入りまして、彼女はしょっちゅう電話や手紙をくれるんですね。電話はくれるということは、僕からも電話をしなければならないのですが、長距離ですから結構お金、かかりますよね。僕にはそんなにお金がないし、手紙を書く暇もない。結構、勉強きつかったんですね。だからある時、彼女に、「もう電話は止めよう、手紙も止めよう。その代わり、年に一度、豊橋においで。それまでの一年間、お互いどんなことがあったのか、とことん語り合おうじゃないか」と言いまして、毎年九月に彼女が豊橋に来ることになったんです。僕は、八年間、豊橋にいましてね。途中、二年ほどアメリカに留学しましたので、その期間を除いては毎年豊橋に来てくれました。


 あの白い箱を開けた日は、僕の二十七歳の誕生日だったんですね。僕はふと思いました。「俺って、もう二十七だよなぁ。彼女は二十五か。お互い、いい歳だよなぁ」
 いつだったか、僕は彼女に、彼女と同じ大学に進学した後輩を、
「こいつは良い奴だから付き合ってみたら」
と紹介したことがあるんですね。だけど、彼女は彼に関して一切何も言わない。だから、うまくいかなかったのかぁと思っていました。「そうか、彼女はもしかして、僕を待っていてくれてるんじゃないかなぁ」

 僕は二十七、八まで学生をやっていまして、その時もまだ学生でしたからね。「そうか、僕からのプロポーズを待っているんだよ。そうだよ。きっとそうだ」なんて、勝手に自分一人で決めつけちゃいましてね。「よし、今度来たら、彼女にプロポーズしよう!」と思ったんですね。それに、いつもは彼女に安い旅館に泊まってもらっていたんですけど、今回は僕のアパートに泊まってもらおうと思いました。ただ、六畳の汚いアパートに寝泊まりしていましたからね。いくら何でもまずいかな、と思いまして、ちょっとお金がかかりましたが、三部屋ある借家に移りました。彼女に寝てもらう部屋がこれで確保できました。 彼女の布団も買って、これでオーケー。


0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する