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2019年12月14日02:12

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鴎外選集  第十巻  石川 淳 編   解 説 4

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 「うた日記」で試みた詩の形式上のいくつかの実験への意欲は凱旋後にもなお持続していた。そして明治三十九年から翌年にかけて幾篇かの創作詩を生み、雑誌「藝苑」「東亜之光」「趣味」「明星」「詩人」等に発表され、後に詩集『沙羅の木』(大正四年九月発行)の中の「沙羅の木」 という創作詩の部立ての中にまとめられた。この間の事情については詩集の序文に作者自身による、(沙羅の木は主として雑誌明星の後期に、、私のした試(こころみ)である。・・・明治三十七八年の戦に、私が満州にいた頃、与謝野君夫婦と手紙の往復をした。彼二人と私との交通は、戦が罷(や)んでからも絶えなかった。沙羅の木はそこに培われた芽ばえである。それが風残雨虐の中に、苗(びょう)して秀でずに、ここに哀な記念を留めている)という説明がある。簡単な文言であるが「沙羅の木」 が「うた日記」の余勢を駆っての産物であることがこれで明らかである。とは言ってもそれは満州の野で陣営の殺伐を自ら慰めるために培っていた詩心が漫然とここに尾を曳いていたというだけのものではない。鴎外にしてみれば「明星」に稿を寄せて新詩社の詩風に一抹の新風を吹き入れようとするに当たってのそれなりの豊富なり意図があったと思われる。それは何だったのか。
 富士川英郎氏に「詩集『沙羅の木』につて」という研究が夙に昭和三十二年にあり(現在、玉川大学出版部刊同氏著『西東詩話』所収)、これは『うた日記』に対する『陣中の竪琴』と丁度同じ様なこの詩集に就いての標準的な研究文献となっているものであるが、その中で富士川氏は、これらの詩篇は抑(そもそも)その「腰瓣当」というあまりにも日常的で平俗な響きを持った署名にもうかがわれる如く、明治三十年代後半のわが詩壇の主流を占めていた、浪漫派的、というよりは当時に所謂「星菫(せいきん)派」的な、極端に純粋可憐で、感傷的また趣味的であった繊細巧緻な詩風に対する、、実作を以てしての抗議であり警告だったと、説いている。正にそのまま首肯さるべき見解であろう。
 二年間満州の野にあって苛酷な戦争の現実と厳しい風土の様相を、己が眼を以てしっかりと見据え、その嘱目の情景をありのままに描写し領略することによって詩への昇化を成就してきた、そうした切実な体験を経てきた鴎外にしてみれば、星菫派の空想と感傷への耽溺の態いかにもあき足らず、また強い反撥を覚えたであろうことは当然である。このような、鴎外自身の内部に存した反星菫派的写実精神の動きのみならず、こうした反流行の思想を促した外からのきっかけとして、富士川氏は幸田露伴の短詩とドイツ近代詩の影響という二つに因子を指摘している。
 露伴の短詩も遺っている(全集所収の)篇数全てを合わせてもそう多いものではないが、その主要部分は、面白いことに鴎外の「うた日記」「沙羅の木」と丁度時を同じくして、明治三十七年から作られ始め大正四年頃に至っているものである。鴎外はすでに戦地にあるとき、明治三十八年の秋、遼東半島に進駐していた関東総督府軍医部長賀古鶴所から、賀古あての露伴の私信の中に記されてあった彼の四行詩四章(後に「秋の利根川」と題して発表されたもの)を見せてもらって面白く思い、自分もそれをまねて、〈噬めど割れねばたなうちに/載せて眺めし 猿のこの/・・・〉といった四行詩を詩作してみた。つまり「うた日記」のその年月の部分に排列されている「胡桃」である。
 もう一例をとるならば明治三十九年の露伴の作に「五月雨」と題する四行詩があり、長雨にどぶがあふれでた貧しい下町の街路で、石油を買いにやらされた子供がころび、こぼれた石油の薄膜が虹のように一面の水たまりの上にひろがってゆく、一種の美しさを歌っているが、これなどは甚だ新しく面白い詩想であり、「沙羅の木」の中の、雨の日の電車の窓にたれる雫が小紋の模様をなすさまを歌ったものや、「朝の街」の〈塗絵広告絵看板〉が露に濡れて映える姿、或いは、〈足早き角の怪〉である車が本郷三丁目の角に停まるとき、「昨日の新聞三枚一銭」と呼び売りしている麦稈帽子の男の姿などを歌う詩篇と似通った詩情を促し、表現したものということができるだろう。
 また、より具体的な「刺戟と反応」の痕跡を認めることができるものに、露伴の「しゃぼん球」(明治三十九年八月「東亜之光」)を見て、鴎外が、しゃぼん玉の詩ならドイツにもあるー、と言わんばかりに早速に訳出して翌月の「藝苑」に寄せたモルゲンシュテルンの「月出」がある。これなどは富士川氏の指摘する通り、鴎外が星菫派の情緒過剰を是正すべき解毒剤として、俳体詩とでも呼ぶべき平明で市民的な露伴の新作と重ね合わせて、自然主義や外光派的印象主義を標榜するドイツ近代の詩人達作風を我詩壇に導入しようとしていたことを示唆する好個の実例であろう。
 「うた日記」には、字数律に基づいて定型詩の新しい形式模索の試みがみられたことは既に指摘したが、「沙羅の木」ではそれを更に進めて、鴎外は恰も『於母影』当時の清新な熱情を蘇らせたかの如くに、国語定型詩に於ける押韻の試みを再度取り上げることになった。
 「旗ふり」には〈・・・旗ふり、・・・ゆきずり〉、〈・・・手にふる、・・出づる〉、〈・・・いそしき。・・・ひびき〉等の並列韻がみられるが、この場合押韻し合う一組の同字の一つ前の字が、また互いに類韻をなしていることも顧慮に値するだろう。
 「後影」は題材から言えば満州前線従軍時の記念と見るべきであるが、奇数行、偶数行同士が押韻し合う包含韻であると共に、両聯の第二。三行は頭韻を有するという工夫も施されている。脚韻も前例と同じく末尾字の一つ上が類音をなす、所謂二重韻である。
 もう一つの例は「直言」で、これは三行詩の形式をっているが、脚韻を押しているのは第一・三行でつまり包含韻であるが、第二行は押韻の組み合わせからは除かれている。その代わりに第一・二・三聯と第四・五聯に於てその各第二行めが行末に類音を列ねながら終っており、これは意識的な操作に出るものであろう。〈・・・バイシクル、・・・上がり来る 〉、〈・・・掲載を、・・・光彩を〉というのは行末二字以上を同字に揃えた、拡充多重韻と称すべきもので、押韻としては相当に疑った、入念なものである。こうした押韻定型詩への志向は、これらと全く同時期の制作である。明治三十九年十二月の「明星」に発表された「火」「鴎」にも又明瞭に造型・表現されているのだが、この二篇は何故か「沙羅の木」にも、その他の単行本にも収録されずに終わった。
 「沙羅の木」の中で最もおそい作品は「海のおみな」で、これは「空洞」(因みにこの作品にも一行置に二重韻の脚韻が二度づつ現れる)と共に、平明な写実風を主張とする「沙羅の木」の中では異色な、幻想的詩情を湛えた作品で、妖しい官能的な刺戟と、人の意識化に漠然と蟠(わだかま)る生の不安・恐怖が綯い交ぜになって襲ってくるような不思議な味わいのものである。この「海のをみな」にすぐつづく形で明治四十二年五月の「昴」に「我百首」という百首一聯の短歌連作が掲載された。
 「我百首」は連作といっても、例えば斎藤茂吉の高名な「死に給ふ母」や「おひろ」の如く、一首一首が内的に連関を有し、かつその前後の排列を入れ替えることが許されない様な形での、敢えて言えば、これらは互いの脈絡も順序もなしに、唯雑然と取り集めた百首なのであって、従って必ずしも排列の順を追うて読むことを要せないものである。
 これらの歌は畢竟作者の内部の心象風景の象徴的表現であるという点で「海のおみな」の延長線上に考えてよいものではあるが、作者の意図から言えば、「明星」に拠る新詩社の浪漫的・主情的詩情と伊藤左千夫一派の「アララギ」が見せている写実的な歌風とを相近づけ、そこに両者を融合した新しい詩風を創出しようと試みたもの、と言うべきもののようである。従ってその新しさというのは、詩人の内心からの発想を尊びながらも、情に流されることなく、主知的に、輪郭のなっきりした形象生を構成するー、つまり思想的内容の濃い、象徴詩の如きものを目指していた、とも言うことができるだろう。「我百首」を発表してから五箇月ほど経て四十二年の十月に鴎外はR・M・リルケの戯曲『家常茶飯』を雑誌「太陽」に訳載し、同時にその改題として対話体のエッセイ「現代思想」を同じ号に書いているが、その中で〈先頃百首の中で、少しリルケの心持で作って見ようとした処が、ひどく人に馬鹿にせられましたよ〉と述べているところがある。この〈リルケの心持で作った〉というのが具体的に何れの作を指すのかは分明でなく、前記の富士川英郎氏の「詩集『沙羅の木』について」の中に四首ほどそれらしいのもも指摘はあるが、富士川氏も、リルケの心持といってもそれは表面にはっきりと出たものではないことを言われ、むしろ「我百首」全編がドイツ近代の象徴詩の息吹を呼吸しつつ成った短詩なのであるという意味のことを述べている。ただもう一点だけ指摘しててもよいと思われるのは、「我百首」が表現上の工夫に於て或いはリリエンクローン風の外光派的印象主義の色彩感覚を取入れ、デーメルやクラブント風の物語性を加味し、リルケやホーフマンスタールに見られる様な比喩や象徴的表現の新奇・繊巧を誇る、といった手法の他に、詩的形象及びそれを支えている語彙の点で著しくその世界を拡大している、といった事実がある。即ち「釈迦」「摩掲陀国」「蕃没羅菓」「伽羅」「金剛不壊」「四大仮合」などは仏教的形象の語彙であり、僅か一語だが「麻姑」は『神仙伝』中の仙女だから道教的色彩の強いものと言えよう。これらの語彙はそれを以て構成される形象が神話的起源のものであることは既に暗示するものだが、実際に第一首は〈斑駒の骸をはたと抛(なげう)ちぬ〉というのだから、例の「」に出てくる須佐之男命の逆剥の天つ罪を歌っているのだろうと思われた次の瞬間に〈Olympos なる神のまといに〉という下の句が出る。まさに奇想天外の連想の進展である。この種の西洋と東洋、古代と現代、壮大な宇宙的想像と微視的な日常現実の直写といった組合わせ・取合わせの妙は「我百首」全体に互ってみられる顕著な特徴である。敢えて言ってしまえばこれは鴎外の「あそび」かもしれない。この種のあそびは当時新詩社の社友達も盛んに試みた、一種の流行でもあったのだが、鴎外もそれに参加し、そしてそのあそびにいささか形象上規模の拡大と象徴表現の深化を促そうと試みたものであったろうか。
 この種のあそびが新詩社社中には既に一般的であったとはいうものの、鴎外のここで試みた諸々の想像の新しい連接・結合の奇抜さはやはり群を抜いていたかと思う。その点でオリュムポスなる神の団居のさ中に投げ込まれた逆剥の斑駒の骸とはまさしく詩壇に投ぜられた「我百首」の比喩かもしれず、そうなればこの第一首は作者のひそかなる自負の表現であろうか。さきにこの連作には一貫した脈路も順序もないとは言ったが、この第一首と最後の第百首〈我詩皆けしき臓物ならざるはなしと人云う或は然らむ〉との両作などはおそらくは意識してそこに据えられた破題と棹尾の役割をになったものであったであろう。
 詩集『沙羅の木』の中で一巻の構成上から言えば第一部に当たるが、成立順からは最も後れて成立したのが「訳詩」で、これがまた鴎外自身の序文の詞によれば〈初はドイツの抒情詩で、中はスカンヂナキヤの物語で、末は「うたひもの」である〉、ということになる。ドイツの抒情詩はデメール作が九篇、モルゲンシュテルン一篇、クラブント作が十一篇で、これも訳者自身序文で言っている様に甚だ変だった、乃至偏った選訳であり、これを以てドイツ近代抒情詩の代表的なるものを紹介する詞華集たらしめんとした、と若し言うならば、その偏頗(へんぱ)にして不充分なるは弁解の余地がない。だが鴎外の意図はそこに在ったわけではなく、ただ己のその時々の好みと感興の赴く所に従ったまでであり、さきにもふれた如く、モルゲンシュテルンの一篇などは露伴の「しゃぼん球」に応じて仮に訳出して提示した唱歌の詩だと言ってよい、選択の我儘さ加減は訳者自身の夙に自認するところであった。
 殊にクラブトンは当時無名に等しい、詩を書き始めたばかりの青年である。大正三年五月雑誌「我等」に載せた随筆『ハアゲマン』の中にも、当時フリッツ・ルムプフがクラブトンの名を未だ知らなかったらしいことが書かれている。クラブトンの訳詩十一篇はその翌月、六月号の「我等」に載ったものである。恰も、鴎外が興味を惹かれたのにルムプフの方が知らなかったクラブトンをはどんは詩を書いた人であるか、早速紹介しようーとでもいった風の事のはこびであった。デーメルの九篇も「我等」に、その少し前になる二月号に発表されたものである。
 デーメルとクラブトンの訳詩にみられる、鴎外の原詩への深い理解と味到、若々しい感情移入、平明で柔軟な口語の駆使による見事な翻訳ぶりに等については前記の富士川氏の論文が委曲を尽くして説いており、その懇篤な説明を、要点を洩らすことなく短く要約して述べることすら甚だ困難である。ここでは唯一つ、鴎外の訳したクラブントが、当時の若い詩人達のあいだに何らかの反響を喚び起こさずにはいなかったことの一つの例証として、富士川氏の指摘する室生犀星の「大学通り」と題する詩の中の、〈・・・/クラブントといふ独逸の大学生は/ボタンの穴に大きなダリアを挿して/人ごみのした街を無邪気に歩いたといふ/・・・〉の件を挙げるにとどめよう。そしてまた富士川氏によれば、〈一般に鴎外のクラブトン訳詩のスタイルをも少し神経的に尖らせ、それに怪異な幻想や、アヘンの夢のようなヴィジョンを附け加えるならば、それは『月の吠える』や『青描』の詩と甚だ近いものになるのではなあるまいか〉、というのである。量も少なく、単行本として行われなくなってからも久しい故に甚だ目立たないものである『沙羅の木』中の訳詩は、しかし大正詩壇の一部の重要な流れを喚起し促進した刺戟剤として、その詩史的意義を今後評価されてもよいものであろう。
 終りに一つ付け加えておきたいことであるがクラブントの「イギリスの嬢さん達」(原題Die englischen Frauleins)について、これは「天使のやうな」(englisch)娘たち、というのを鴎外が誤訳して「イギリス娘」にしてしまったのだ、という詩的がなされたことがある。指摘した人が高名なドイツ文学者であったために、この説はその後も二、三の人にうけつがれ、「鴎外の誤訳」の一つの例として爾来一度ならず取り上げられていたのを見たことがある。そこでこの機会に私見を述べておきたいのだが、これは「天使のやうな」の誤訳ではなく、やはりイギリスの娘たちと解するのが正しいのである。その文法的・語法的根拠はかなり詳しく述べなければ体を成さないのでここの記している余裕はないのだが、或いはかえってこの史の印象自体から見て、それは簡潔な字句の中に、まさにイギリス風景そのものが写されているのだからー、と言えばよいかもしれない。筆者の知友なるイギリス人の某氏も、クラブントの原詩に就て、さりげない表現の中にイギリスの雰囲気が妙によく出ている、という評を聞かせてくれたことがあった。
 「スカンヂナキアの物語」と呼ばれるビョルンソンの「鷲の巣」はもと散文であり、それを譚詩の体の訳したのだから翻訳というよりはむしろ翻訳改作であること、また楽劇「オルフエウス」に就ては鴎外自身の解題が「序文」中にあり、それ以上ここに付加えるべき言葉は不要であろう。
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 鴎外は明治二十六年頃から一年に数首づつ短歌を詠じている。知人宛の書簡に記されてそのまま受取人の手許に埋もれてしまった作などもあろうから、幸いに記録をとどめて現在全集に収録されているよりも実際の歌数は多いかもしれぬがそれは問題にすべきほどのことことではないし、また年に数首というほどの作歌は日本人ならたしなみとして誰もができることであり、これを以て鴎外の詩業の一端というべきほどのことでもない。鴎外が不意に歌人としての己の存在を世に示すに至ったのは、やはり「うた日記」を以てであると言うべきであろう。満州の曠野での歌心は凱旋後も衰へずにいて、明治四十年十月「明星」に「一刹那」と題する連作二十一首を発表し、翌四十一年にも同じ雑誌い一月「舞扇」連作二十四首、八月「潮の音」十九首の発表がある。そしてこの勢が頂点に達したところで四十二年五月の「昴」への「我百首」の一挙掲載になるに至る。
 即ち「一刹那」「舞扇」「潮の音」は「我百首」に上りつめるための階梯の位置にある作品であり、その調べも、形象、詩想もほぼ共通したものといってよいのであるが、「我百首」の先行作品として「海のをみな」を考えることが許されるとすれば、例えば「一刹那」は、その前年明治三十九年の十二月に作られている押韻定型詩「火」の詩想から直接に系譜を引いているのだと見ることができよう。それは、〈右手にとる松明は/かざされぬ。空焼くは/盗みたる千とせの火。/わがおもひ/わが立てる顛と/そびやきて、神か人/わかざるも一刹那。/・・・〉といった、プロメテウスの形象を示唆しながら、人間の精神のある昂ぶり
極まった果てに俄に神的なるものに接近して火花を散らす様な〈一刹那〉が生ずる経験を歌ったもので、それが即ち連作としての「一刹那」の主導動機をなしているからである。ここに点出された神話的想像力の産物とでも言うべき諸形象は、鴎外の西洋文学の上での博い教養から生まれた、畢竟知的営為の所産なのであるが、その他〈死の騎士〉や〈抱かれゆく丈なる髪〉などは読書からというよりむしろ絵画から取り入れた印象の断片ではないだろうか。「一刹那」は妙に森と神話的な石宗教的形象との支配が眼につく連作だが、その最後の一首が〈な誇りそ汝みやこびと煙突の森に家居し炭を食(は)む人〉というのは浪漫的詩想を弄びながら結局は醒めた人である作者の皮肉であり、、またこの連作に於ける構成上の配慮の一端であるとも言えよう。
 「舞扇」はその題の艶からして新詩社の、殊に与謝野晶子の作風への唱和の趣が感じられるものであるが、そうとすれば、それはさきに述べた『うた日記』中「無名草」の三十一字詩の場合と同様、幾分かの皮肉を込めた底のものであろう。ただ主調としては比較的率直に西洋近代詩中の印象主義的蛛方を駆使して、女性的優美と清純の形象を取り集め、造型したものと評することができる。 「潮の音」は先行二連作に比べると、連作としての構成的配慮や主題の統一性。共有性が更に稀薄になったもので、この題名にもほとんど内容上意味連関がない。悪く言えば様々の詩想・形象に基づく作を雑然と取り集めたものであり、即ちもはや連作と定義する必然性すら乏しいものと言わねばならない。このような前段階的試作を検討してみることによってまた逆に「我百首」の多彩と豊麗の詩趣が更めて浮かび上がってくるのだと言えようか。
 以上、結局「我百首」の前段階と言うべき三作に比し、制作年代も十年あまりを距て、作風もこれらとは質を異にするものである「奈良五十首」は注目に値する。これは大正十一年一月に第二次「明星」の第一巻第三号に発表されたものだが、内容から言えば、これは大正七年から大正十年にかけて、毎年晩秋に帝室博物館長として正倉院開封のため奈良に出張した、その時の経験を、謂うわば詠みためておいたもので、その上でこれは連作としての入念な配慮の下に再編成された文字どおりの連作である。
 この作品には丁度『うた日記』に対する『陣中の竪琴』、『沙羅の木』に対する富士川氏の研究に匹敵する様な、平山城児氏による注解『鴎外「奈良五十首」の意味』という労作がある。実際この連作はこの様な適切な注解を参照しつつ詠むとき初めてその真価を理解し味わうことができる、というよりも注解なしでは篇中のどの一首もその本来の味わいに達することができない、というべきほどであり、その意味ではここではいかなる解説も畢竟無力である。平山氏の丁寧な注解を逐一参照されるに如くはないことになる。
 ただ一言「奈良五十首」の鴎外分業全体の中での位置について述べておくならば、この連作は彼の文藝の面でのまとまった創作では最後のものだということである。同じ第二次「明星」には創刊号(大正十年十一月)から「古い手帳から」が連載され、鴎外の死によって中断されているので、これが本来の絶筆・遺稿というべきものだが、性格を言えば備忘録の如きもの、一種の随筆であろう。彼の文学的営為の最後の作品はこの「奈良五十首」である。
 この連作の「白毫寺」の部に〈旅にして聞けばいたまし大臣(おとど)原獣にあらぬ人に衝かると〉がある。即ち大正十年十一月四日の原敬暗殺事件を奈良の宿舎で聞いての感慨である。〈獣にあらぬ〉というのはこの歌の二つ前に酔漢が鹿の角に突かれて死んだという椿事を詠んだものがあるからだが、さて原敬刺殺の凶報に触発されててであろう、ここから五首ほど当時の社会を動揺させていた政治問題にふれての感懐を詠じたものが続く。奈良に於ける公務とも、余暇を得ての古寺散策とも関係のないモティーフだが、これは帝室博物館総長としての晩秋の古都に於ける静かな〈み倉守り〉旦暮にも、新しい時代の怒濤の如き大きなうねりが容赦なくその波動の一端を及ぼしていたということの表れで、一寸象徴的な作因だと言えるかもしれない。これはまさに同じ頃に筆を執り始めたと覚しき「古い手帳から」と読み合わせてみると興味深い読物になるであろう。鴎外の晩年はそのたえざる自彊不息(自ら彊(つよ)うして息(や)まず)の精神的緊張の故に、決して功成り名遂げた人の安らかさに似たものを持たなかったのである。
 大正十年の晩秋、既に死因となった病の症候が下半身に現れ始めていたという鴎外を襲ったのは、自分が半生を捧げて尽くしてきたこの日本という国家の前途に対する漠然たる不安、沈んだ憂鬱といったものではなかったろうか。
 ともあれその時の現実の鴎外の身は寂然たる秋雨にけぶる古の帝都、〈燃ゆべきものの燃えぬ国木の校倉のとはに立つ国〉の夢の都に在る。一瞬ものに脅かされた如きの彼の感慨は、〈富むといひ貧しといふも三毒の上に立てたるけぢめならずや〉、〈貪欲のさけびはここの帝王のあまた眠れる土をとよもす〉といった静かな観照となって収束してゆくのである。
(昭和五十四年)






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