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2019年12月14日02:08

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鴎外選集  第十巻  石川 淳 編   解 説

          解      説
詩人としての鴎外
ー『於母影』『うた日記』『沙羅の木』短歌連作ー
小堀桂一郎

 鴎外が詩人として創作し活動した時期が生涯に三度ほど数えられる。順序を踏んで挙げてみれば、その第一の時期は明治二十二年(一八八九)を中心とする青年時代の十数年間であって、この中をまた少し詳しく眺めてみれば、明治十四年における長詩『盗侠行』の制作、翌十五年の『北游日乗』の旅詠の漢詩五十数首、明治十七年から二十一年にかけてのドイツ留学中に折にふれての漢詩の作、帰朝後間もない明治二十二年夏の訳詩集『於母影』と、それに続く数年間の散発的にではあるが創作漢詩と訳詩の記録が見られる。この期間である。
 第二の時期というのは明治三十五年(一九○二)から四十年にかけての期間で、この時期の制作の中心部をなすのは言うまでもなく、『うた日記』一巻であり、これは鴎外が訳詩のみならず創作詩の面でも第一級の詩人であることを立証した、記念すべき詩歌集である。この時代も細やかに見れば、明治三十五年「万年艸」に数編の創作詩を発表したのをきっかけに
三十六年に長編「長宗我部信親」があり、三十七・八年の日露戦争従軍中が『うた日記』の日々であり、帰国後もその余勢を駆ってか、三十九年にはやがて『沙羅の木』に収められることになる創作詩の大半がこの年に作られている。
 第三の時期と見られるのは大正三年(一九一四)から五年にかけてのことで、三年には『沙羅の木』中の訳詩と歌劇台本『オルフェウス』の翻訳が成って雑誌「我等」に発表され、翌四年の夏には単行本『沙羅の木』が出る。五年には後に単行本『蛙』に収めれれたグスタフ・ファルケの詩数篇の訳が「時事新報」に発表されている。(稿が成ったのは大正四年のうちであろうが。)その間大正四年以降、青年時代以来あまり活発ではなかった漢詩の制作が俄かに復活したかの如くに盛んになり、これが大正七年に至る。第二と第三の時期の間、及び大正八年以後にも漢詩にまた歌詞に数篇の作があるが、儀礼的なものや或いは嘱に応じたものが大部分である。短歌の連作に就いてはこの三期の制作の盛時と重ならないものが多いが、それはやがて別個に検討しよう。


 明治二十一年の秋、足かけ五年のドイツ留学を終えて鴎外が帰朝した時、新しい時代に向かって出発した新生日本の、所謂近代化の歩みは次第に活発の度を加えているところだった。軍事・法政・行政・産業といった国家的緊張の分野に於いても革新と改良を要望する呼び声が高く聞こえ始めた。その代表的な存在が、鴎外のドイツ滞在中のこと、明治十八年に公にされた坪内逍遙の『小説神髄』であった。これはその後我が国の近代文学の進むべき方向を写実主義という大原則の下に統一しようとし、また事実近代日本の文学史は大筋としては逍遙の唱道通りに動いてきたといってもよい、大きな影響を与えたものだったが、詩歌の方面に於いてはこれに匹敵するような強力な指導理論はまだ出現していなかった。鴎外がドイツに出発するより前のこと、明治十五年に矢田部、外山、井上という東京大学の教授による新しい国語史の様式の実験の如きもの、『新体詩抄』(初篇)が刊行されていたが、これは実験としては要するに失敗に終わり、新様式の模範をなすという程の力は持たなかった。ただこの詩集(英米詩の翻訳十四篇、創作五篇)の著者たちが公明な大学教授で社会的地位名声を有する人々であっただけに、その成果は専ら否定的消極的評価を受けただけの身であるにせよ、とにかく時人の注目を惹くことはできた。彼らは『巽軒詩鈔』に漢詩人としての実力を世に認めしめた井上哲治郎一人を除いて決して詩人でなく、文人のタイプですらなかった。彼等は後に夫々学界の長老として社会的勢力を揮った権威者達であり、彼等の晩年の発言にはそれ相当の重みがあった。彼等が後年自分達の若年の日の業績を回想し、この詩集の刊行を以て新体詩運動の基礎をなしたものの如
くに自ら宣揚にこれを努めたとき、世人が何となくそれを明治文学史上周知の公論であるかの如くに受け取ったー、というのが実相であった。そしてそれはたしかに無理からぬ事のなりゆきではあった。
 事実として、明治二十二年当時の我が文学界に於いて、漢詩・和歌以外の詩、つまり今日我々が普通に理解している意味での国語の詩ー 当時の呼び名を用いるならば新体詩ーはまだ独立の地位を認められているとは言えなかった。この状況に着目したのが、当時雑誌「国民之友」(明治二十年創刊)の主筆として評論界に大きな地歩を占めつつあった俊敏なジャーナリスト徳富蘇峰である。蘇峰は鴎外の帰国直前のことである明治二十一年八月に「新日本の詩人」という論説を発表し、そこでー新時代の日本にふさわしい詩の形式と詩の思想とがまだ欠けている、この二つのものを想像し得る新時代の詩人現れ出でよーと、謂わば檄を飛ばした。その際蘇峰はもちろん『新体詩鈔』の参人の教授を詩人などと認めてはいないのである。やがて彼は自分のこの要請に応えるだけの力量を備えている新人として、新帰朝の鴎外漁史に着目した。鴎外の方でも丁度、国学者の落合直文、漢学者の市村瓚次郎、医科大学生であり従ってドイツ語の読める井上通泰等の若い友人達を糾合して新声社という文学青年の同人組織を結成したばかりのところであった。その新声社の第一の事業として天下に有力なる雑誌「国民之友」から新しい国語詩の範例となりうるような詞華集の編纂を依頼してきたのだから、半ば素人の集りである文学青年達の結社としてはこれはまことに幸先のよい出発であった。。
 蘇峰の期待に応えて提出された訳詩集『於母影』は明治二十二年八月の「国民之友」夏期附録の巻頭に載せられて世に出た。評判は大変良く、すぐに増刷をし、やがて附録だけが別刷りの単行本として刊行されたほどだった。更にこれが明治二十五年七月に鴎外の第一創作・訳文集である『水沫集』の巻末附録として再度単行本の形で世に出るに至り、この作品集の流布率と単行本としての安定性に助けられて、詩集としての『於母影』の普及と人気もまことにめざましいものとなった。新しい国語詩の様式と思想との指導標とも模範ともなってもらいたいーという民友社側の期待、及び当時の新詩人達一般の渇望は見事に満たされた観があった。
 一口に訳詩集といっても、『於母影』の内容・構成は今日の通念から見ると一風変わっている。初出の際には集中全十七篇のうち、英文学からシェイクスピア一、バイロン三の計四篇、ドイツ文学からゲーテ、レーナウ、ハイネ等の計十一篇、明詩より高青邱の一篇、日本古典から『平家物語』の一節を漢詩に鋳直した一篇、ということになり、形式別にみると、和文の詩、所謂新体詩と名付くべきもの十一篇、漢詩及び漢詩風のもの五篇、三十一文字の和歌の体を取れるもの一篇、という分類になる。これに『水沫集』に収録の際、高青邱の詩を和風に翻した一篇と、鴎外が明治十四年一月東大医学部卒業直前に書き上げ、十八年一月「東洋学藝雑誌」第四十号に発表した長大な訳詩風の七言古詩「盗侠行」とが付加えられて、詩篇の数は計十九篇となった。
 収録された詩篇の分類の基礎として、もう一つ見落とすわけにはゆかない重要な事項がある。この集はその目次に於て各詩編の題名の下に(意)(句)(韻)(調)といった一字づつの注記があるのだが、凡例によればこの(意)というのは(従原作之意義者)ということで、つまり原詩の意味内容が国語の詩的表現を通じて伝わればそれで事足れりとし、原詩のもつ形式の特徴までも邦語に移植せんとしたわけではない、といった意味である。以下順を追って見てゆくが、即ち集中の詩篇は翻訳の方針から言えば四種類の訳法に基づいての分類もできるわけである。ここで逆に考えればいったい西洋詩の形式的特徴迄をも日本語に移すということが可能であろうか、という疑問がすぐに湧いてくるのだが、他の三種類の訳法は実はその難作業をそれぞれの段階に応じて解決せんことを、ともかくも目標として実施しているものである。(句)というのは(従原作之意義及字句者)の謂なのだが、ここで(字句)というのは端的には原作詩の音節の数のことである。原詩の音節の数と訳詩のそれとを全く等しくするような翻訳の為方といえば、それは即ち歌曲の詞章の訳がそれでなければならないことは誰しも気のつくことで、従ってこれは特に珍しいことではない、という見方も成り立つ。ただし『於母影』における句訳というのは節づけされた歌曲の訳詩の場合とは少々異なり、原詩の音節数と邦語の字数との算術的等置ではなくて、原詩の律格(といってもアクセントの強弱、高低などは国語に移植し得べくもないので畢竟各行の音数律というほどのことになるが)を分析し、、その音数律を一音=一字対応に基づいて国語詩の字数に生かそうという試みなのである。
 例えばレナウの「あしの曲」について見れば、この原詩は八音節で女性韻(抑格止め
に終わる奇数行と七音節で男性韻(揚格止め)に終わる偶数行が規則正しく交替する四脚のトロカイオス(揚抑格)詩節が一聯四行で三聯に連なるものであるが、訳詩はこの形式のうちの八音節と七音節の交替という要素にのみ着目して、そこで八字句と七字句の連続、つまり八七調という律格を抽出する。原詩の各行をそれぞれ八字句と七字句一対で一行をなす様に訳出するのであるから、音量は訳詩が原詩の丁度二倍になる勘定である。この八七調という字数立の抽出・実現を以て(原作の字句に従える)訳法と称することができるかは多少問題であり、少なくとも原作の形式・韻律美をこれを以て日本語に移植し得たとまでは言うことはできまい。しかし翻って思えば、従来七五調か五七調以外の字数律をもたなかった国語詩の律格に全く新しい八七調を案出・提示したのが、西洋史の翻訳課程を通じて為されたことであったという事実は注目に値する。鴎外自身『明治二十二年批評家の詩眼』という評論の中で、(独逸の趣味を輸入して文章驟に興りしは魯西亜にあらずや、「アレキサンドリーネル」調を輸入して詩風大に革まりしは北欧諸邦にあらずや)と揚言しているが、おそらくは、西洋詩の律格を移植して国語詩の形式に一新機軸を拓いてみせようーという程の抱負は鴎外の脳裡に存したことであろう。
 この他「ミニヨン」と「マンフレット」の十十調(これは間伸びがしていて到底成功した字数律とは言えまい)、「あるとき」の八六調、いずれも原詩の音節数を遂行数えてみた結果として編み出されたものである。原詩の音節数に対する訳詩の字数の比率は、十十調の場合がほぼ二倍、八六調が一・五倍となっている。
 この訳法は原詩の意味・形象のに加えて音節数を考慮して邦語に移植せんとした点に苦心の所以が存するのだが、原詩の形式を分析するこの作業の過程で当然に出てくるその他の要素、つまり押韻と抑揚までをもそっくり包含して翻訳しようとしたのが(調)、すなわち(従原作之意義字句平仄韻法者)という甚だ手の込んだ訳法である。ただし(平仄(ひょうそく))を言う以上、これは国語詩に於て実現できる技法ではない。この法に基づいた「月光」「曼弗列度」の二篇はレナウ、バイロンの原作を関し風に翻したものだが、それはどこまでも漢詩風というに過ぎないものであって排律・絶句でないことはもちろん古詩とも楽府とも名づけ様のない不思議なものである。「月光」「の方は一見八五の長短句を連ねたものの如くに見えはするが、これを漢詩の様式概念で割切ることはどうにも不可能である。八と五の字数律は(この場合の「字」は漢字なのであるから、耳に聴く場合の音量は国語詩の八五調とはまた違って、それより少し多くなってくる)原詩の八音節と五音節からなる句を律儀に写したものであり、また原詩の揚格が平声に、抑格が仄声(そくせい)の字に、と、これも厳密に対応し、更にその上に詩の脚韻がこれまた性格に同じの韻字の組合せに置き換えられ、しかも全体としての意味形象はほぼ過不足なくドイツ語からこの漢字の羅列・組合わせの上に移し植えられてあるという、これはよく見れば実に唖然とするほどの巧緻(こうち)を尽くした。絶妙なる詩技の産物である。「曼弗列度」にしても不用意に一瞥すれば、一応七言古詩の体裁に倣いながら、所々で原詩の意味容量を処理しきれずに八言の行が生じてしまったー、とでもいう様に見えるかもしれないのだが、これもまた、七字の行も八字の行も全て原詩の音節数を忠実に移植したものに他ならず、その各行の平仄も「月光」の場合と同様、原詩の揚・抑の律格に、韻字は原詩の互に押韻し合う詩脚の韻に正確に対応しているのである
この両篇のそれぞれ最初の二句に、訳者が原詩の対応句を併せ掲げてその韻律の図式を示しているのは、この訳法の苦心のほどを読者に読み取ってもらいたいための配慮である。
 この二種の訳法と比べれば〈従原作之意義及韻法者〉である(韻)訳の技法は、国語詩への訳出法としてはそれほど苦心を要せぬものと言ってよいだろう。この際適用する字数律は伝統的七五調でもよい。問題は原詩と同様の型を有する脚韻を邦字を以て出せるか否かにかかっているからである。実際にこの訳出法を用いた三篇は皆七五調の和臭の強い詞遣いで訳出されている。国語の詩における押韻の効果を有効と信じかつ主張していたのは落合直文であった。そのせいでもあろう。この三篇のうち「いねよかし」と、一種の連作形式をとっているため分量の甚だ多い「笛の音」の訳詩を担当したのは落合直文である。後者は直文の分業の一としてその遺文集『萩之家遺稿』にも収められている。鴎外は国語詩の押韻にはそれほど積極的でなかった。西洋詩に於ても押韻は将来徐々に後退してゆく技巧であるとの見通しを有していたせいでもあった。しかし唯一篇ながら「オフェリアの歌」に於て、彼は脚韻はもとより、頭韻や所謂行内韻までをも駆使して、実に水際立った見事な韻法の技巧を見せている。その点では原作以上とさえ称してもよいかもしれない。ものがシェイクスピア『ハムレット』中の一曲であるだけに、坪内逍遙を始めとして、以後この小詩篇についてはかぞえきれないほど多くの日本語訳が出現した。しかしこの鴎外ほどに見事な成功を収めた例は数少ない。明治期後半以降の日本における英文学研究の水準の急速な高まりを思い合わせるとかえって不思議な話なのだが、シェイクスピアの原詩が含むプロットの理解と形象把握の正確さという点に於いてさえ、鴎外薬の水準と肩を並べ得るものは後進の幾多の業績の中にそう多くは見当たらないのである。更に、誤解を恐れながらも敢えて一言付け加えるならば、昭和十年代における「マチネ・ポェティック」の押韻定型詩の運動が提起したような、日本語詩の韻律をめぐる諸々の問題点の悉くは、「オフェリアの歌」というこの一篇のささやかな実験の中に既に出揃っていたと言ってよい。
 訳法の技巧の面から、これらの詩篇の原点の問題に移って一言しておけくならば、ヴェーデルマン、ゲロック、ケルネル、フェラント等のあまり幽冥でないドイツ詩人の作は、鴎外が留学中から愛読していたマクシミリアン・ベルン編の『ドイツ詞華集』(Maxiimilian Bern(e.d)Duusche Lyvik seit Goethes Tode.)というレクラム文庫本から出た。ハイネの「あまをとめ」もたぶんこれにはいっていたものである。レナウ、ゲーテの作はそれぞれの全集から採ったものであろう。シェッフェルの「笛の音」は『ゼキンゲンの喇叭手』という長篇の物語詩集からそのほんの一部を抄訳した形である。
 一方バイロンの「いねよかし」はハイネ全集に収められていたハイネによるドイツ語訳を底本とした。この事情はそれでは「マンフレット」「曼弗列度」の場合も同じかというに、「曼弗列度」の冒頭に翻訳技法の証示のために対比引用してある原詩が英語原文であるという事実が注意を惹く。この事情はしかし次の様に簡単に説明がつく。ハイネはバイロンの「マンフレッド」第一幕第一場を中断なしにまとめて訳出しているのだが、この訳行というのが実に見事なもので、翻訳王と綽名(あだな)されたA・wシェレーゲルすらも完全に兜を脱いで敬服したほどの出来栄えであった。即ち律格・押韻の図式的構造はほぼ完全に原詩と一致し、意味・形象の移植には寸分の過不足なく、しかもドイツ語の詩として非の打ちどころがないまでに磨き上げられた、まことに異例の傑作にして苦心作なのである。精細に分析してみると鴎外の訳はやはり主としてハイネ訳に基づいていることが窺われるのだが、、その場合、韻律論的には英語原詩とドイツ語訳とはつまりは同じものなのである。一方鴎外がタウフニッツ版のバイロン全集原文を参照した証跡もあり、要するには彼は英語原詩と独訳の双方を参照してこの訳詩を成し遂げたと考えてよい。冒頭に英語原詩を引いているのは、、その方が訳者苦心の技巧を読みとってくれる読者の数がいくらか多いと期待したゆえであろう。
 『ハムレット』中の「オフェリヤの歌」は今度は彼の高名なシュレーゲル訳の存在にもかかわらず、鴎外は主として英語原典に基づき、独訳は附随的に参考に供する程度にとどめた。これも双方の原詩と訳詩とを精密に分析比較して得られた結論である。
 高青邱の詩については原詩を云々するまでもないであろう。ハウフ原作の「盗侠行」というのは前述の通り大学卒業直前の頃の作であるが、これの原典は現在岩波文庫で邦訳を読むことができる、『隊商』という近東趣味の物語である。詩はその一部を長大な七言古詩の体裁に韻文訳したものであり、市村瓉次郎の「鬼界島」と共に、これは正格の漢詩である。底本は察するに大学で用いていたドイツ語の教科書ではなかったろうか。
 もう一つ『於母影』には一風変わった問題がある。それはこの詞華集の翻訳が新声社同人という一結社の共同作業の成果として提出されたものであるため個々の詩篇の訳者を普通の様に確定することができない、という点である。「鬼界島」や高青邱の作品の場合は別として、西洋史の場合その原本の所持者は鴎外であり、彼の主導性が強く働いていたのは当然である。しかし大半ドイツ語であったその原詩をまともに読みこなし得たのは同人中鴎外と井上通泰との二人だけであったであろう。そうした条件の下で、落合直文や、鴎外の妹の小金井きみ子の訳業への関与というのは実際にはどの程度のものだったのであろうか。これは筆者の推定によるというより以上のものではないが、訳出すべき詩篇の選択と、それから訳出のための必須の前提としての原詩の読解も、その大半は鴎外の責任に於てなされたものである。以下は全く筆者の想像であって確かな証拠があるわけではないことなのだが、敢えてそれを記してみるならばー、徳富蘇峰の依頼を受けて鴎外が新声社同人一同を不忍池畔の彼の家に糾合した時、彼の手もとにはマクシミリアン・ベルン編の詞華集からの抜き書きを中心とする或る程度の訳詩草稿(或いはその試案)といったノートの一冊があったのではあるまいか。そしてその翻訳案の多くは「思郷」や「別離」にみる如き漢詩風の覚書きだったのではなかろうか。落合直文や、ドイツ語の読めた井上通泰にしても、この両人が用いた翻訳底本というのは実はこの鴎外の草稿だった。従って直文訳或いは通泰訳というものの実体は、「鴎外解読・草案、直文修辞」とでもいうべきものではなかったかと思われる。原詩の解読の精粗・適不適等は国語詩としての修辞を施して最終稿体を決定した人の筆にではなく、草稿を作った鴎外に責任のあることであったろう。
 この関連から一つ特記すべきはホフマン作「わが星」という一篇である。これはE・T・Aホフマンの小説『桶屋のマルティン親方とその徒弟たち』の中に出てくる、ルネサンス期に栄えた「職匠歌」の様式に則った素朴な歌謡である。ホフマン自身これを十七世紀末期の地方史作者ヨーハン・クリストフ・ヴァーゲンザイルの『ニュルンベルグ年代記』に素材を得て書いたものであった。さてこの歌謡についてホフマンの原文に出てくるものと『於母影』の訳詩とを比較してみるに、集中この一篇ばかりは「翻訳」よ呼ぶことを躊躇せざるを得ないほどに、自由な、悪く言えば杜撰な翻訳・改作の産物なのである。鴎外は後、明治三十九年に『改作・水沫集』を刊行したとき、『於母影』の目次からホフマンの名を削って〈失名〉氏の作としたが、この処置は原作者を当時の日本では文字どおりに無名氏に等しいヴァーゲンザイルと考えたからー、ということではなくして、その甚だしい原作離れの翻訳ぶりゆえにさすがの原作者の名をあげるのを憚ったからだ、とみられる。この詩篇について鴎外は全くその大意を摘記してみせたにとどまったのであろう。そしてこれを見られる通りの甚だ和臭の強いやまとうたぶりの詞遣いを以て翻訳したのは鴎外の妹の小金井きみ子であったであろう。小金井きみ子も新声社同人の一人としてこの共同翻訳作業に加わっていたと自ら回想しているのであるが、そこで彼女の果たした役割は原詩の読解には直接に関らない、訳詩草案に和風の修辞を施すことと、そして兄鴎外の原稿の浄書という程度のものであったと想像される。
 『於母影』の成功は輝かしく、その影響は深くかつ長く及んだ。それは主として『水沫集』を通じてのことであったが、当時の文学青年達が如何にこの詩集を歓迎し愛誦したかについては多くの証言がなされている。そのほんの一例としてここでは島崎藤村の『春』に描かれた、北村透谷の面影を写したという青木という青年が「オフェリアの歌」を高らかに吟誦する場面を指摘するにとどめよう。また藤村自身の若年の日の詩作『若菜集』中に印された歴然たる『於母影』の口調の模倣の痕跡なども、その一つの証跡と見做すことができるであろう。

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