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2019年11月16日12:03

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「あさひなぐ」の完成度にはやはり頭を下げざるを得まい

そろそろクライマックスを迎えつつある「あさひなぐ」。
言うまでもなく、「女子高校生を主人公に置いた、”熱血少年漫画型の”スポーツ・青春マンガ」に先鞭をつけ、しかもすでに名作の殿堂入りが約束された傑作です。


でもね、私はと言えば、結構はやいうちに読んで、面白い、すごいとは思っていたものの、なんか気持ちの上でちょっと距離を置きたくなる作品だったんですよ。
(私にとってはですよ?)

古参のマンガファンにはこう言えば通じるかも知れませんが、浦沢直樹作品にちょっと反感を覚えてしまうような、「マンガ作品として巧すぎる」「新人らしい、やらかしちゃった感がなんもない、つまり愛着を覚えるには少々愛嬌に欠ける」って感じ?

逆の例を引けば、デビュー当初は色々とプロとして足りないところがあった島本和彦先生が、それを補うべく、熱意と根性でこちらを楽しませてくれようとしているのが感じ取れると、「いやもう、ツッコミどころとかそういうの、あえて目をつぶらさせていただきますので、いっそこのままやれるとこまでやっちゃってください!」と、変な肩入れをしたくなってしまう、みたいな。

もちろんこれには私の器の狭さとか、読み手としての至らなさがあるといわれて仕方ないんですが、しかしこれってある意味自然な感情で、誰しも「誰かの手のひらで転がされているなあ」なんていう自覚があると、どうしても居心地の悪さを感じずにはいられないと思うんですよね。

でも、作品世界にのめりこむためには、まず第一に「これはしょせん誰かの思惑で作られた、ユーザーである私を喜ばせようとしている作りものである」という意識をとりのぞいておかないといけない。
だから入り口からうまく入り込めなかったのは、読み手としての私の失策でした。


だって実際、この「あさひなぐ」は、決して読者を手のひらで転がしてみせよう、なんて作品じゃなかった。

一人の創作者が、熱意とあらん限りの力を使って、どこまでも思春期のキャラクターたちによりそいつつ、なんとか彼女たちを晴れの舞台に連れて行ってあげよう、その姿をあますことなく描き出そうという、まさに「今時はやらない熱血精神」を、作品世界の根底に静かに、しかししっかりと根付かせた上でつくられた作品でした。


この長編作品の一人ひとりのキャラクター、エピソードに触れていけば、いくら文字数があっても足りないので、一つだけ抜き出しますと、やはり今、心に残るのは宮路真春ですね。

これまでのスタンダードな形式では、ずっと主人公の憧れの存在として描かれがちなポジションとして登場した彼女が、ストーリーの序盤で早くも泥沼に足を踏み入れてしまう。

最初の寿慶による合宿終わりに指摘された、「彼女の短所」が予兆ですね。
それがいきなり一年生に敗北するという形ではっきりと示され、その後幾度も同じような窮地に追い込まれながらも、なんとか周囲の助けや彼女自身の努力で這い上がろうとするのですが、実は最初に寿慶が指摘した「短所」はちっとも改善されていなかった。

だから、何度も宮路はつまづき、なんとか這い上がるものの、全体として彼女と彼女をとりまく状況は悪化していく。

なにしろその短所は、指摘した寿慶ですら克服できなかった、出口のない道であり、福留やす子が逃げては帰り、逃げては帰りを今だに繰り返す、武道、競技者であるかぎり背負った宿命とでもいうべきものだったのですから。

ただ、この作品の完成度に頭がさがるのは、宮路の出口を指し示すことができるキャラクターが、こっそりとですが、最初から、しかも必然的理由をもって配置されていた点です。

すでにその回は単行本化されていますが、そのキャラクターとはもちろん「田中先生」です。

競技者でなく、努力や勝敗と無縁な価値観を持つ、しかし大人らしい手抜きをしながらも、決して二ツ坂の面々と付き合い続けることをやめない、ある意味タフな大人。
実社会に出れば「あ、こういう人って貴重だな」ということがわかるんですが、それってドラマにならないので、めったにフィクション作品でスポットのあたらない役柄です。

映画版で演技が本業でないアイドルたちにまじって、このポジションに腕の立つ役者である中村倫也がキャストされたのもわかる、難しい役どころでしょう。

そもそも二ツ坂高校薙刀部の団体戦での強さを形作ったのは、田中先生です。
田中先生があまりに頼りないから、彼女たちは自分たちでなんとかせざるをえなかった。
つまり、「まずは自分たちでなんとかしてみよう」という自主性というんですか? 主体性というんですか? そういうものが形成されています。

なので、結果的にいくら窮地に陥っても、「自分たちでなんとかする」精神をもつ彼女たちは、なかなか大くずれしない。大くずれしても、誰かがフォローに入れる。

試合やそもそものチーム編成時点で、他の高校が自滅的にくずれ、結果、二ツ坂が「きれいでない勝ちを拾う」というパターンが多く描かれますが、これはまだ十代後半の選手たちが団体スポーツをやる際にはむしろありがちなこと。リアリティを感じます。

で、この「最初の指導者が優秀ではない」というのは、スポーツ漫画では王道のパターンです。
たとえ優秀であっても、あえて自主性に任せるというのはありですが、優秀な指導者に従って、頑張ったので勝てました、じゃあ誰が主役がわかんない。長丁場であるマンガ連載は続けられない。

これは2時間程度の枠しか無い劇場映画作品とは対照的ですね。よくあるでしょ、「過去に名選手だったが、挫折してしまった人間が、素人集団を率いることで指導者もチームメンバーも救われ、栄冠を勝ち取る」ってパターン。
短時間でストーリーを完結させるには、このキャラクター配置のほうがいい。

しかし、「あさひなぐ」は最初から長丁場で行こう、行きたい、という強い意志をもってはじめられた作品であるということが、この配役でうかがわれますね。
とことこん二ツ坂の面々と付き合っていきたい、という気持ちの現われとも言えるかも知れません。


そして、その長丁場を前提とした配役は、見事に生かされました。

それが、田中先生と宮路の会話です。

見ごたえがありましたねえ。「あさひなぐ」の今までの長い道のりを振り返りたくなるくらい。(いやまだ最終回じゃないんですけど。)

延々と主人公の憧れのヒロインを幾度も苦闘にまみれさせて、しかしクライマックス直前で、我慢に我慢を重ねて、王道パターンを守って、とことんダメな大人・指導の出来ない人、けれどもそれを自覚できている大人の人間として描き続けた田中先生が、そのダメさならではの言葉で、それまで誰も救えなかった宮路に、しかも直接手を差し伸べるのではなく、「宮路自らの手で答えをつかませる」。

これを青春マンガと呼ばずとして何を呼ぶべきか。ってなもんです。
感心しきりです。
作家さんとスタッフさんたちの苦心と苦労が忍ばれます。

それを読めるというのは、実に幸せなことなんでしょう。
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