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2021年06月12日02:44

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半径5メートル 第三部

第7号「ワンオペ狂騒曲」
迂闊なことにぼくは今日まで「ワンオペ」という言葉を知らなかった。ワン・オペとはワン・オペレーション。一人作業のこと。種種雑多な仕事を同時に受け持ち独りでこなすことを指すのだそうだ。今回話題になっているのは「ワンオペ育児」。共働きでありながら、母親の方が仕事と家事・育児を受け持たされること。今回の主役はマスミンこと藤川ますみ(山田真歩)。それまで気配すら見せていなかったのだが、彼女も私生活で大変な思いをしているらしい。
再起不能レベル。宝子さんが形容した、山辺の今である。いまも社会的バッシングが続いている。よく精神的に持ちこたえていると思う。やはりそこは、自分の取材に絶対間違いはないのだという確信があるからなのだろう。自分の落ち度ではないのだから。ここ。テーブルに食い散らかされた落花生に彼の荒涼たる思いが如実に表れている。演出的に心象風景としてよく描けている。
それはともかく、フーミンの今回は同業カップルの取材である。将棋プロの夫婦の将棋の夢の話をしていたが、「桂馬跳び!」なんて、そんな寝言、言わないのではないだろうか。プロ棋士の脳内にあるのは将棋盤であり、棋譜である。桂馬跳びなど、素人でも棋譜を読むことで学び、強くなってゆくのだから、こんなことは言わない。言うとすれば、たとえば「4五桂!」とか「5三歩成!」とか、そういう言い方をする。4五桂でわかりにくければ「4五桂馬!」でもいい。桂馬という呼び方は、略さないことも日常よくあるからだ。「桂馬の高跳び歩の餌食」という諺がある。下手な将棋は桂馬を上手く使いこなせず、簡単に歩の餌食になってしまう。一方で「三桂ありて詰まぬことなし」ということわざもある。桂馬は他の駒と違って、ふつうに進まないし、飛車・角・香車のようにスライドもしない。空間を飛躍する。しかも跳んだら最後、元へは戻れない。それゆえにこそ、他の駒にはできないようなやり方で玉を追いつめることも可能になる。あの、強固な囲いで知られた「穴熊」も角と桂馬があれば、たった三手で詰んでしまう筋が生ずる。桂馬とはそれほどおそろしい駒なのだ。だから後手なら金などでもって銀頭を守ったり、9二(9二玉は別名「米長玉」ともいう)か、8一に玉をかくまったりすることもプロ棋士はやるらしい。角道を外すのだ。どっちにしろ穴熊は手がつくと早い。穴熊に限らず、三枚桂があると、詰まない玉も簡単に詰まされてしまう筋が生ずる。ほんとうに面白い駒である。この女性棋士は桂使いの名人なのだろう。昔の中原誠永世十段は桂使いの名手と言われたし、今をときめく藤井聡太二冠も桂使いには定評がある。この女性棋士の夢の中は、相当白熱した、詰むや詰まざるやの盤面になっているはず。一手詰めろがかからなかったら、その瞬間が反撃の時。相手玉に即詰みがあれば、逆転勝ちとなる。逆に詰みがなければ自分の負けになる。高段者になれば実力は伯仲してくるから、こういう一手違いの終盤戦になる。A級クラスの高段者になると、自玉の詰み筋を巧妙に外しながら、敵玉を追いつめる手を仕掛けてくる。藤井二冠もこういう手筋は得意中の得意で、自玉に即詰みがあるとき、敵玉を攻めながら自玉を詰みなしにしてしまう名人である。実際僕も藤井二冠が桂馬をただで相手に取らせ、自玉の詰みを外し、敵玉を受けなしにしてしまう鬼のような手をNHKスペシャルで見たことがある。高段者になればなるほどこういう「攻防の手」を指すのは上手い。つまり、脚本のセリフなら「一手空いた!」とか「即詰みです!」とか「29手詰み!」とか、そういうことを叫べば相当リアルな棋士像を描写できるのではないだろうか。脚本家ならそういうことをもっと知るべき。
ちょっと待った! 致命的に気になることに気づいた。それは棋士の小谷六段の年齢と段位である。彼、タイトル戦に挑戦すると言うが、見た感じ、40代後半から50代前半(あるいは半ば)に見える。で、この段位。思うに、彼ぐらいの年齢なら昇段規定により、六段くらいの実力なら、段位は二つ飛び越えて、八段くらいにはなっているはずである。タイトル戦に挑戦できるくらいの実力の持ち主なら、当然そうなるはず。それが出来ていないということは、彼のいるクラスはC級2組(プロで最も低いクラス)なのではないか。C級2組は奨励会から上がってきたばかりの生きのいい若手か、上のクラスから陥落してきた、もう行くところのない棋士の両方がいるクラスだ。彼は、そこから上がることもできず四段のまま来てしまったのだ。ただ、昔の棋士とは異なって今は昇段規定があるから、通算勝ち星によって段位がそれなりに上がる。彼ぐらいの年齢なら、二段上がることもできるのではないか。年間10勝程度勝てば10年で五段に、さらに12年で六段になれる。ただし、彼の実力は未だに四段のまま。そのクラスから上がることもできずにこんないい歳まで生きてきてしまったのだろう。その程度の実力しか持っていないのであれば、タイトル戦に挑戦などできるわけがないのではないだろうか。勝負の世界は厳しい。ここ。設定に大いに疑問が残る。
将棋に関して書きすぎた。反省。ここからは別のことを書く。
美術評論家青葉美砂子先生(阿川佐和子)の原稿をマスミンが引き受けることになったのだが、いまマスミンの家は良人が単身赴任中であり、一人娘がむつかしい時期にさしかかっていて大変なことになっている。そのために作家付き編集者すらちゃんと勤め上げることもできないマスミン。マスミンらしくないが、それには彼女ののっぴきならない事情というものがあった。このあたりの情景、若干集中的に仕事と家庭の描写を錯綜させ、ドラマの演出としてはおもしろさを見せているし、たたみかけていることで、観客を引き込むことに成功している。
万引きに深夜の徘徊。この娘の非行は親に「もっと私を見ていて!」と言いたいのだと思う。それはスマホも欲しいけれど、それだけじゃないんじゃないか。マスミンのワンオペのしわ寄せが、フーミンの仕事にも悪影響を及ぼし、同業カップルのネタの取材が思うように出来ていない。行けるはずの取材に行けなかったりして、時には取材相手を怒らしてしまうこともある。そのせいでフーミンはマスミンのフォローもできない自分に責任を感じている。が、マスミンのフォローするのが当たり前って、その理屈に異議を唱える宝子。そのフォロー、フーミンだけが引き受けなきゃならないって、誰が決めたの。
あかりちゃんが発病した。ストレスからくる自家中毒。別名ケトン血性嘔吐症。食欲不振・悪心・嘔吐・腹痛などを訴える。軽症なら食事療法で対応できるが、脱水症状や食事が困難な場合は点滴療法が行われることもある。水分や糖質のもの(林檎果汁など、熱がある場合はアイスクリームなど)を与えるといいらしい。
マスミンがやっと、娘の異変について話してくれた。そんな大事なことをどうしていままで相談してくれなかったの? そうとわかったら二折班全員でフォローに廻ろう。一人では大変なフォローも、みんなでやれば大したことはない。
青葉美砂子先生の言っていた磁州窯の鉄斑(ここ。焼き物の世界をわかりやすく手短に、「鉄釉」や「鉄斑」の違いなどを観客に分るようにみせる描写を、ワンシーンでも挿入すれば、もっと面白い話になったと思う)も用意でき、表紙用の写真の撮影も滞りなく済んだ。結局あなたは皆さんにたすけてもらったわね。という先生の言葉に、マスミンが言った。私は先生のように完璧に仕事をすることができませんでした。その言葉尻を青葉先生は捉えた。完璧? 私のどこが完璧なの? そんなことは周りの者が言っているだけのことで、仮に完璧に見えたとして、私がその裏でどれほどの犠牲を払っているか考えてみたことある? 犠牲も払わずに成し遂げようなんて、私には甘えだとしか思えない。
あかりちゃんの急病によってこの娘の真意が見えた気がした。あかりちゃんはスマホをもてば、いつもママと一緒にいられる、ママとつながれると思ったのだ。きっと淋しかったのだろう。
ここんとこ宝子さんの挙動がおかしい。きょうもフーミンが帰宅すると、フーミンの部屋から宝子が出てきた。部屋に入ったら山辺が裸で、いま服を着ているところだった。ギャーッ! 何だそれは。このことで大人が思いつくことって一つしかない。ちゃんと説明してもらったが、「面白バイト体当たりレポート」。何だそれは。遠赤外線のパンツをはいて撮影し、体温の変化を測るだけで1時間2万円。ほかにも墓参りの代行、ジグソーパズルを残り1ピースまでやるとか、朗読ボーイとか。山辺君けっこう変なバイトやってる。宝子さんは感性のひと。人間が大人だし、人の気づきにくいことにも気づいて、いろいろなキャッチボールをしてくれる。ある意味魔女だ。
山辺の紹介で漫画家同士の夫婦を取材した。インタビューをフーミンはメモっているが、こういうところはボイスレコーダーを置いて取材するのではなかろうか。手帖にメモでは聞きとれなかった箇所はうやむやになってしまう。ボイスレコーダーなら幾度も聞き直せる。ドラマ「知らなくていいコト」で吉高由里子もそういう取材の仕方をしていたことを思い出す。
家事も育児も一人でこなし、それに仕事も完璧にやる、なんてことを、日頃、世間の女性たちは要求されている。その過酷さを思った。そこへ行くと、男は気楽なものだ。仕事だけやっていればいいんだから。ひとによりけりだけれど、中年期の女性の過度のストレスは、閉経や更年期障害との兼ね合いも相まって、うつ病、躁うつ病、統合失調症を発症してしまうリスクも抱えている。もしそうなったら、これらは一生ものの病気だ。家族もろともこの災厄に付き合わされることになる。逃げてはいられない。向き合わないと。男だって、仕事だけやっていればいいなんて寝言は通用しないのだ。
今回の山辺のこと。腫れ物に触るようだと言いながら、フーミンは怖くて触れられないが、「どん詰まってる」状態を打開すべく、打ち出された宝子のさまざまな働きかけによって、腫れ物は暴発もせず、回復の兆しらしきものが見えてきている。その証拠にラスト近くの山辺の表情は明らかに明るくなっているし、救われている。起死回生の決定打は生まれるだろうか。次回以降が楽しみになってきた。
役者について。山田真歩。このひとはバタバタしていたり取り乱したり、苦悩する役柄が似合わない。どちらかと言えばクール系キャラがよく似合う。今回の苦悩するマスミンは、あまり板についていたとは言い難い。演出的に問題があったのではないだろうか。いつもの、川柳を口ずさみながら、常に風刺の目を持ちつづける編集者であってほしい。今回。ゲストの阿川佐和子の風格ある演技が印象に残った。この人の助演で山田真歩の存在が否定されずに生かされたようにも見える。永作博美は脇役に過ぎなかったが、要所、要所の彼女の場面では、ここぞとばかりに光っていた。芳根京子も今回はストーリィテラーに廻ったが、各場面でスパイスのような辛味の効いた演技を披露して、おもしろかった。ことに青葉先生の書斎で深夜、寝落ちそうな自分と闘ったり、宝子の〈夜這い?〉に驚いたりする場面など、メリハリのある場面作りに貢献していた。ドラマのアクセント的演技。ほんとうに今回目まぐるしく事件・出来事が入れ替わり立ち代わり、目が回るような展開だった。編集者にとって、毎日は戦争なのだということが、嫌と言うほど伝わってくる。
フーミンの記事。毎回二折のメンバーが褒めるが、僕が思うに彼女は未だ人から褒められるような仕事はしていないと思う。文章を聴いていても、ものごとの上っ面を撫でているだけのような記事だし。「おでんおじさん」の記事はよかったが、あれ以降、人を感心させるような記事は書いていない。まだまだ。もっと、一皮も二皮も剝けなければ駄目だと思う。作・川崎いづみ。演出・黛りんたろう。

第8号「野良犬は野垂れ死ぬしかないってか?」
就職氷河期を経験した世代のお話。
「人間って、人生で一度ケチがついたら、一生を棒に振らなければならないんだろうか?」
阿南先生(須藤理沙)はフーミンの中学時代お世話になった、学習塾の講師。いまはファミレスのバイトをしていて、そこでフーミンとの再会を果たした。学習塾の講師時代の阿南先生は、誰も置き去りにしない素晴らしい先生だったとフーミンは言う。
この先生は立派だと思う。この世代、中には引きこもりになってしまう若者も大勢出たから。
取材先でフーミンと宝子が逢った、SNSの世界で「野良犬」と呼ばれている女性、須川恵美子さん(渡辺真紀子)。3年前に雇い止めに遭っている。8年間働いたが、非正規雇用というだけで、会社の備品を使わせてもらえず、会社でお茶も飲ませてもらえない。よって水筒持参で来ていた。社員のやりたがらない仕事すべてをこっちに回されて、昇給は8年間でたったの50円。そして契約期間を更新されず、突然社員証を返却しろと言われた。
けれども須川さんはまだ甘い気がする。スーパーのパートなど、昇給が時給1円、2円なんてざらだった。自分自身は風邪をひいて39℃の熱が出ても、インフルエンザじゃないから休んではいけないと言われた。よくそれで肺炎にならなかったものだ。と、自分を褒めてやりたいくらいだ。仮に死人が出ても体制が変わらない職場というものが現実にある。誰かが告発しても会社が左前になって倒産するのが関の山で、社会的モラルが刷新されるわけじゃない。
須川さんの望みは、自分たちを捨て駒にして廻っている世の中でぬくぬくと生きている人たち全員に対して、全国民に謝罪しろという。土下座しろ。
この場面。途中からフーミンはメモする手を止めている。話を満足に聴いていないのがありあり。それをかたわらで怪訝そうに見ている宝子。何様なの?
宝子はひと言こぼした。何と言ったか。フーミンはまるで他人事のように聴いていたね。これっぽっちも共感していない。宝子はこう言い捨てて部屋を出ていった。
つまりは所詮リストラされたことのない人には、リストラされた人の気持ちなどわからないのだ、決して。
このドラマ。コロナ以前が舞台だろうか。それ以後であったなら、合理化を理由に風未香など、真っ先にリストラされているはずだと思う。早期退職者を募る以前に。自分だけ涼しい顔はできないはずだ。
阿南先生を援助したいフーミンだが、先生は明らかに迷惑そうに話を聞いていた。その後も電話をかけたが出ない。居留守をつかわれている。
阿南先生は名刺を持っていない。肩書もない。資格はけっこう持っているが、お茶代は自腹。経費などというものはない。フーミンに助けてあげる。弁護士紹介してあげるって、言われるたび自分をみじめに思う。と、先生は言う。
須川さんから抗議の電話があった。自分がいちばん言いたかったこと、すべてカットされててひと言も載ってないじゃない。あなた、私の何を聴いていたわけ? 当たり障りのないことばかり書いて何がおもしろいわけ?
風未香のこの所業が宝子さんの逆鱗に触れた。最初は静かに話していたが、不意に風未香の足を思いきり踏んだ。痛い!宝子さん痛い!
黙れ!うるさい! と、制する宝子。
宝子はさらに言った。痛いことされたのにうるさいって言われて、黙っていられる? 痛くて叫んでいるのに、無かったことにされそうなときに。聞き手のあなたが共感できないってだけで。消されたのよ! 無かったことにされた人の痛みがわかる? フーミンもさすがに今度は身に沁みてわかったようだった。記事を書き直さなきゃ。
一方で宝子は須川恵美子さんの高校時代の人となりを取材。彼女の人間像を多角的に描こうという試みをしていた。ほんとうに今回ばかりは宝子の援護射撃が無かったら、気の抜けたサイダーみたいな記事になっていたはずだ。フーミンよ、自分の眼力の無さを思い知れ。宝子さんのおかげでこの記事、なんとかなりそうである。すんでのところでごみのような記事になってしまうのを免れた。ほんとうに記者の風上にもおけない。こんなことをやっていると、一折の田端デスクにまた嘲笑われるぞ。いずれは社史編纂室行きの人材だ。
須川さんの来ている法律事務所で須川さんの生きてきた道そのものにスポットライトを当てる話を宝子が始めた。フーミンも言葉をつづけて言った。もう一度、見方を変えて書き直したいんです、と。
もう一度、やってみる?
よろしくお願いします。話はまとまった。
今回の出演者の演技。渡辺真紀子の存在感が圧倒的。その一方で須藤理沙の静かな演技が、好対照をなしていておもしろかった。今回は役者全員の演技が演出によって生かされたと思う。永作博美と芳根京子の演技も際立って見えた。場面、場面に見せ場があり、抑揚、起伏に富んでいた。作・藤平久子。演出・北野隆。

最終第9号「ここから始まる」
野心を持った男は、男らしくたくましいが、野心を持った女は成り上がり者の悪女。何だそりゃ。                                                                                                                                                                                                                                                                          
今回は見る角度によって見方が変わってしまうできごとを、もどかしくもあるが掘り下げている。そのもどかしさは黒澤明が初めて世界に注目されるきっかけとなった映画「羅生門」との共通点を感ずる。
フーミンは「自分の記事」を書けるようになったか。どうだろう。傍から見ていると、ムラがある。いい記事を書く時もあれば、気持ちの乗っていない、気の抜けた記事を書くこともある。絶賛はできない。
フーミンは事件の真相と人物について、フェアに考えようとしている。情に流されているわけではないし、どちらかを贔屓目に見ているわけでもない。同じ事件を追っていても山辺とフーミンの視点も論点も違うから、話に折り合いはつきそうに思えない。山辺はいろんな角度から(若干そこには先入観・色眼鏡的見方も孕んでいるようだ)見たもので判断しているが、フーミンは半径5メートルという渦中の人物〈興津社長〉の身辺から見えるものを中心に、関係者の忌憚のない言葉を取り込みながら事件の真相をあぶり出そうとしている。先述の黒澤明の「羅生門」では真相は結局わからなかった。誰が嘘をついているか、ではなく、話の角度、視野、視点の違いからここまで見方が変わってしまう、その不思議さについて論じていた。
今回、子育てアプリという、IT関係の事件について調べている。不正入札の真相。山辺と風未香の会話がこじれる場面。たとえ恋人同士でも、いや、恋人同士だからこそ譲れない話がある。この場面もう少し緊張した会話が続き、修羅場になってもおもしろかったろうと思う。
ちょっと話を脱線させてもらう。第1号で話題になった、浅田航と綿貫さゆりが身につけていた〈蒼いブレスレット〉。これは興津社長が支援している就労支援プロジェクトの品だということが明らかになった。ここでひとつ真実が浮かび上がった。恋愛関係をすっぱ抜かれていた浅田航と興津社長とは幼馴染で、それ以上でもそれ以下でもなく、児童養護施設時代からの旧い仲間だった。話はつながっていたのだ。
最近のフーミンについて編集長と宝子さんが話していたが、フーミンが台風化しているという印象。まさにそうで最終第9号でも二折全員が渦中に巻き込まれている場面が幾度もあった。二折の活性化。だんだん老化が進みはじめていた二折の記者たちに、カンフル注射をするような効果を上げはじめている。嬉しい驚きだ。前回の宝子さんによる叱咤激励が功を奏したのだろう。宝子は名伯楽の素質ありだ。
興津社長は言った。私の母親は私を置きざりにし、餓死寸前のところで私は児童養護施設に入れられた。母はたったひとりでこどもに向き合い、疲れてしまったのだ。そんな母親だったが、一度だけ面会に来てくれたことがあった。そのときの涙でぐしょぐしょになった、母の顔が忘れられない。あんな顔はこどもに見せてはならないし、こどもは見てはいけない。親を救わなければ、こどもは救えない。私はあんな親たちを救いたくてこのプロジェクトを立ち上げたんです。
興津社長は自分の人生をかけて、このアプリ開発に没頭したのだ。不正入札などと色眼鏡で見た記事を書くことが、どれほど失礼で悪意に満ちたことか(記事を悪意で満たすことが、かの記者の本意ではなくても、記事を読んだ人にそういう印象を与えたのなら、くだんの記事は悪意に満ちているのだ)、記事を書いた記者は分かっていない。
風未香は全身全霊の想いを込めて記事を書いた。胸に沁みるいい記事だったと思う。
山辺は風未香の記事に敗北宣言をした。いい記事だと思う。負けた。何よりこの記事は「人をしあわせにする記事」だった。興津社長をバッシングから救った、値千金のホームランのような記事だったと言っていい。
山辺は風未香の部屋を出ていった。恋が終わった。猫のいるアパートに、人恋し気に猫たちが啼いていた。
今回。永作博美の出番が多いのに、影が薄く、芳根京子がゲスト〈興津社長〉の西山茉希と同様に存在感を発揮していた。芳根はセリフのイントネーションをつけるのが巧み。演技が大きくなる時も、オーバーアクトになっていないのには感心する。若干パターン化している箇所もあるが、演ずる人物にある種のパターン化が起こるのは当たり前のことだ。一人の人間になりきれば、ひとの言葉やしぐさにそのひとの独特のクセが表れるのは当然。芳根の演技は、そのクセを摑むのがうまいのだと思う。
作・藤平久子。演出・岡田健。
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