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2020年10月07日10:40

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精神障害者の昔はこうでした。「木造校舎」

■「障がい」表記で差別はなくなりますか?アルビノ当事者が語る現実「イメージの良い言葉」が隠す社会の矛盾
(ウィズニュース - 10月07日 07:00)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=220&from=diary&id=6258818

第一章
誰かが燃やし終えた焼却炉から烟の出ているのが面白いので、ぼくがこっそり蓋を開けて木の棒でつついていると、火が出そうになってくるから、内心どきどきしながら見ていた。
夕まぐれの木枯らしが冷たさを増して、辺りに吹きすさんでいた。そこは小学校の校舎の裏であったが、夕餉時に近いこともあって、人通りはまったくなかった。
ふいに植え込みの向うより「よく燃えるかい。早く帰れよ」と気さくそうな見知らぬ小父さんから、ふいに声をかけられた。
「なかなか燃えない」
そう答えて、ぼくははっとした。ずっと見られていたのだろうか。どきっとして、叱られるかと思ったけれど、彼がにこにこしているので、大丈夫だと思い、ほっとした。
ぼくは当時、街の子から片田舎と馬鹿にされていた、檜町の町はずれの、東山小学校の四年生の児童であった。その日、放課後の掃除も済んで児童は次々に下校していった。課題をただひとりクリア出来なかったぼくだけが、居残り授業をさせられていた。何の授業だったかはこれから話すが、結局課題は翌日に持ち越しとなって、そこからようやく解放された後、やって来たのが音楽室のある別館の、校舎裏の建物の根っこであった。もうすっかり日が暮れて校庭にも裏庭にも誰もいなかった。その頃の校舎は本館も別館も木造であり、校内放送で下校を促すピアノの音楽ももうとっくに終っていた。
ぼくは何故かその日、家へ帰る気になれなかった。ひどくいじけた気分だった。一つには今日出された国語の、クリア出来なかった難題を、家に持ち帰ってまでやりたくないと言うのがあった。友だち同士で手紙を書き合えというのだが、誰に書いたらいいのか判らない。ぼくには遊び仲間みたいなのが少しだけいたけれど、親しく付き合っている級友は一人もいなかった。クラスの遊び仲間に声をかけたら、ことごとく断られた。そのため授業時間中に問題は解決せず、居残りとなった。しかしそれでも片づかない。誰に書いたらいいのか判らない。先生には痺れを切らされ、あきれ果てたように嫌味を言うだけ言われて、結論は持ち越しになった。
「とにかく明日までに書いてきなさい。そして教室で発表して下さい」
だが実際は、持ち越しにする必要なんかなかったと言えた。答えは出ていた。ただみっともない答えで、泣きたかった。それにすぐに言えばまた怒られるし、恥ずかしいから黙っていた。なぜならそれは名案とは言い難かった。勿体ぶらずに言うと、その結論というのは自分に手紙を出すという、ひどく不自然でつまらないことだったのである。それを明日、教室で発表するのも嫌だった。みんなの蔑む声がありありと聞こえてくるような気がした。けれど、他に手紙を受け取ってくれそうな友だちは結局現れなかったし、書くにしても自分にどんな手紙を書いたらいいのか判らない。何を書いてもみんなに嘲られそうな気がする。ちくしょう。そのせいもあってこんな場所でぐずぐずとくすぶっていたのだった。
こんなことを言っては何だが、ぼくは担任の大迫良子先生が好きではなかった。第一街暮らしの長かった先生は田舎である東山小学校とその児童を馬鹿にしていた。口では自然が豊かだとか言っていたが、言葉のはしばしに田舎を侮蔑する態度が露骨に感じられた。また、先生は児童には給食の牛乳を飲めと言っているけれど、それが建前に過ぎないことをぼくは見抜いていた。先生が牛乳嫌いで、よく手つかずのままの瓶の牛乳を、教室の教員用の戸棚に隠して、たびたび腐らせているのを知っていたのである。自分のことを棚に上げて、食べものの好き嫌いを言うなとうそぶき、児童を批判する大迫先生を、ぼくはひどく不誠実だと思っていたし、大が五つ付くくらい、大っ嫌いだった。。

第二章
寒いから手袋をして、坐る物がないので焼却炉のところにあった灯油缶の上に坐り、宿題のことを考えた。考えても、いいアイディアは何にも浮かばなかった。正直途方に暮れていた。どうしよう。そう言えばさっきから「すみやのキンちゃん」という綽名の、普段ぼくの遊び相手をしてくれる少し頭のおかしな近所の若者が、そわそわとした様子で、ここらを徘徊していた。声をかけたけれども応えない。あ、ところでキンちゃんに手紙を書くのはどうだろう。先生はクラスメイトでないと駄目だなんて言っていなかったし。そうしようか。自分宛てに書いて笑われるより、キンちゃんに心のこもった手紙を書いてみたいと思った。それならたとえ笑われても後悔なんかしないだろう。十歳年上のキンちゃんは本名神崎欣二。ぼくのいちばん親しい仲間だった。けれどそれにしても、今日のキンちゃんはどうしたのだろう。いつもはぼくを無視するような薄情な青年ではない。ぼくはさっきまでいたキンちゃんに、宿題のことを訊こうと思って、彼を捜したけれど、キンちゃんは見つからなかった。その日キンちゃんは明らかに変だった。いつも変と言えば変かも知れないが、いつも以上に変だった。

年は離れていたけれど、ぼくは天真爛漫なキンちゃんのことが好きだった。キンちゃんはぼくにとって、何でも心おきなく話せるいい兄貴だった。遊び仲間の中には、キンちゃんの意味不明に思えるさまざまな奇行を気味悪がって、目の敵にしている子もいた。あくどい子は彼に石を投げつけた。「♪キ印キンちゃん、うんこ踏め♪」とキンちゃんを取り囲んで囃したてるこどもたちもいた。不良高校生の「愚連隊」と言われる連中は、キンちゃんに小便入りのどぶの水を飲ませた。ぼくは止めに這入ったこともあったけれど、逆に嫌というほど蹴飛ばされた。
毎日のようにつらい目に遭っているのに、キンちゃんはいつもにこにこしていた。「笑い仮面」と誰かが言った。確かにそうかもしれない。だけれどもぼくが思うに彼は笑顔を装うことで、傷つきやすい心をカモフラージュしていたのだ。きっと必死だったのだろう。キンちゃんはそれでもえへらえへらと笑っていた。笑顔はキンちゃんが身につけざるを得なかった性癖だった。今だからこそ判る気がするのだが、彼はにこにこしながらも目いっぱい傷ついていたんだと思う。笑っている目尻が恐怖や衝撃のために引きつっているのを、ぼくは幾度も見たことがある。楽しいか。と、連中はキンちゃんに訊いた。キンちゃんは笑顔で応えた。そうするしかなかったんだろう。楽しいものか。考えなくてもわかるじゃないか。それなのにこの豚どもは薄ら笑いを浮かべて訊くのだ。
あれから数十年の歳月が流れ去ったが、少年たちや世間にとって、無邪気なキンちゃんのどこが気に障るのか、どこがそんなにいけなかったのか、ぼくには未だにわからない。
いつだったか、ぼくはキンちゃんと川釣りに行ったことがある。釣りの苦手な少年のぼくに餌の付け方から教えてくれた。キンちゃんは教え方が上手だった。よくひとりごとを言っていたけれど、細かいことを気にしなければ、こんなにやさしい兄貴もいないと思った。キンちゃんは哀しみをおもてに出さなかった。歯を食いしばって我慢していたのかも知れないと、今では思う。けれども未だにぼくがたびたび思い出すのは、キンちゃんの天使のような笑顔と、彼とともに過ごした楽しい日々のことなのである。
キンちゃんは蛙が好きであった。トノサマガエル、ヒキガエル。それらをそれぞれ水槽に飼っていた。ある時不注意で一匹のトノサマガエルを死なせてしまったことがある。彼が大泣きするのを、ぼくはこの時初めて見た。キンちゃんは大粒の涙をぽろぽろこぼしながら言った。
「オレに飼われなければ、この子はもっと長生きできたんだ」
「そんなことないと思うよ。運が悪かっただけだよ」
「オレがき○がいだから」
「キンちゃん」
「オレなんか生まれてこなければよかった」
「そんなこというと、お母さんが泣くよ」
「なんでみんな、オレに死ねって言うのかな」
それを聞いて、思わずぼくは心中でうめいた。キンちゃんはさらに言った。
「オレが悪いやつだから?」
……なんでみんな、オレに死ねって言うのかな。オレが悪いやつだから? この言葉はぼくの胸に深く刺さり、心の奥まで沁み入って消えなかった。キンちゃんはほんとうに悪いやつだったろうか。神さまもそう言うだろうか。もしこの世に神さまがいるのなら、どうして毎日死ぬほどつらい目に遭っているキンちゃんを、助けてくれなかったのだろう。神さまは平等じゃないのだろうか。

第三章
現在キンちゃんはこの世の人ではない。あるクリスマスの晩、首を吊って自ら命を絶ったのだ。そのことは親族とごく親しい人しか知らない秘密だった。葬儀の日、世間体を気にしてか、表面上は「病死」ということにされた。
ぼくはその当時一六歳、高校一年生だった。神崎のご両親にぜひ葬儀に出てほしいと請われ、冬休みに入っていたこともあって、彼の友人の高校生として葬儀に列席した。
キンちゃんを産む前に神崎のお母さんは一度流産している。キンちゃんを産んだのはお母さんが三八歳の時だった。キンちゃんは神崎さんご夫婦のたった一人のこどもだったのである。
彼のお母さんは葬儀の日の席上で、必死に叫びたい気持ちをこらえているかのような、たまらない表情をしていた。たった一人の息子を失ったショックで、発狂しそうな心をどうにか持ちこたえているという印象だった。お父さんは心ここにあらずといった風情で、あらぬ方向を見据えていた。

幼い頃のキンちゃんは内気で気が弱かったけれど、利口なこどもだったという。小学校に上がると彼は才気を発揮し始めた。ものを覚えるのが早く、小学二年生の時、小学校だけでなく中学で習う漢字もすべて覚えてしまったという。
華奢で頭でっかちのせいかよく転んだ。そのため周囲から嘲られた。中学に上がると、体格が貧弱なせいで、不良たちの荷物持ちをさせられた。一日中小突きまわされた。「腹筋の鍛錬」と言って腹を殴られたり蹴られたりした。「みぞおち」に決まって、彼が悶絶していると、連中は「ストライク!」と言って喜んだ。気絶するまで暴力は止まなかった。
彼の「奇行」が始まったのは中二の終りの頃からである。授業中に大きな声でひとりごとを言ったり、何の前触れもなく泣き出したり、わけもなく笑い出したり、突然叫び声を上げ、席を立って飛び出して行ったりした。
休み時間が終わって授業が始まると、キンちゃんがシャツの袖と手を血まみれにして、教室の入口に立っている。見ると手の甲がぱっくりと裂けて肉が見えている。
病院へ連れて行って、手当てをし、事情を聞くと、
「真っ赤な牛乳を飲んでみたかった」と言う。言うことがどうもおかしいので、精神科に相談した。結果強制的に入院することが決まった。
結局彼は二年近く入院した。退院した時、かつての秀才の面影はかけらもなかった。いつもぼうっとしていて、人の話を聞いているのかいないのか判らないと言われた。彼は町の特殊学級に無理やり入れられ、ようやく一七歳で中学を卒業した。そしてふるさとの東山に戻った。
当時片田舎では精神障害者への風当たりがきつかった。「き○がい」と平気で罵られた。こどもの頃は秀才だったけれど、特殊学級から進学なんて出来なかった。社会で働くにも、「き○がい」を雇ってくれるところなどどこにもなかった。働くことをあきらめるしかなかった。またキンちゃんは働くことが恐ろしかったとぼくに告白した。家業であるガソリンスタンドと小売店を兼ねた「すみや商店」の店番もさせられたが、務まらなかった。
ぼくとキンちゃんが出逢ったのはその頃のことである。ぼくは小学校へ上がったばかり。変なこどもで、放課後になると一旦家へ帰り、家から縦横高さが三十センチもあるような、お菓子の大きな缶を抱えて、小学校の校庭で日が暮れるまでひとりで遊んでいた。その日も砂場でぽつんと遊んでいるところに、やって来たのがキンちゃんだった。話してみるとキンちゃんは凄く物知りだった。雑学の大家だった。ぼくとキンちゃんはお菓子を分け合って食べながら、いろんな話をした。恐竜の話とか、シロナガスクジラやマッコウクジラの話とか。かつて地球にいた巨大な哺乳類の話とか。数億年前のゴキブリと三葉虫の話、アンモナイトの話とか。その後ぼくはキンちゃんの小学生時代を親から聞いて知った。とは言っても、ぼくの両親は精神病者に寛容だったわけではなく、ただキンちゃんのかつての秀才ぶりをよく知っていた。以来キンちゃんはぼくの「偉大な先輩」になり、兄弟のいないぼくにとって大好きな兄貴のような人になった。

ぼくとキンちゃんの九年の歳月はぼくにとってかけがえのない日々だった。キンちゃんと出逢ったことがぼくの人生観を変えた。最後にキンちゃんに逢ったのは、死の前日であった。それは日曜日で、クリスマス・イヴのことだった。キンちゃんはお弁当を持ってサイクリングに行こうと言った。象山(ぞうやま)と言われる山の、ふもとの公園まで行った。近くに滝のあるところだった。お昼には、ぼくはキンちゃんとお互いのお弁当を交換して食べた。キンちゃんのお母さんが作るお弁当には、必ずクマさんの形に鶏のそぼろが入っていた。キンちゃんは恥ずかしかったと言うが、ぼくはこのお弁当が好きだった。ぼくのお弁当には例のタコさんウィンナーとぼくの大好きな鶏の唐揚げが入っていた。ぼくはキンちゃんがウィンナーもぼくと同じく唐揚げも好きなことを知っていた。けれども彼は唐揚げを食べず、必ずぼくに全部くれた。自分はウィンナーを食べるからいいって言う。そういう風にぼくを思いやってくれる青年だった。その日の帰り道でのことだ。あずま橋の欄干に手を置いて、河の流れをしばし見つめた後で、淋しそうに笑いながら、帰りぎわに「さよなら」と、そう言ったのだった。いつもは「また明日」と言うキンちゃんなのに。「さよなら」なんて滅多に言ったことがないのに。妙な胸騒ぎがしたけれど、他の誰にも言えなかった。相談できる人がいなかった。それが、ぼくの聞いたキンちゃんの最後の言葉だった。
ぼくは思った。こんなことになるのなら、誰かに助けを求めればよかったと。けれどみんなキンちゃんを毛嫌いしていて聞く耳を持たなかった。当時はいわゆる「いのちの電話」なんて、あるのかどうかも知らなかったし、誰の助けも呼べなかった。思うに世間の人間どもすべてが、ぼくにはキンちゃんを死に追いやった加害者に思えた。葬儀の日、ぼくは腹を立てていた。参列した連中は、誰もが一人残らず人殺しじゃないのか。自分だってその一人だ。ぼくは今もって世間が憎い。ひとりのか弱い青年を、むざむざ死へと追いつめた偏見に満ちた冷たい視線と、彼のような精神病者に対して、無慈悲で無関心極まりない世間というものが憎くてならなかった。
働くこともできず、近所をうろついているキンちゃんに、世間の大人たちは容赦なく、揃ってこう言った。
「おい、穀つぶし。邪魔だ。どけ」。
こんな言葉を平気で言える人たちは、家ではいい父親であったり、母親であったりするのだ。世人の論理ではキンちゃんは悪で、健常者は善なのだ。だからキンちゃんがひどい目に遭って死ぬのは当然なのだ。これが勧善懲悪という奴か。よってキンちゃんに小便泥水を飲ませた連中は、カッコいい正義の味方、ヒーローなのだ。世間とはそんなに偉いのか。

遺書はなかったと神崎のお母さんは言った。ただ、「お父さん、お母さんへ」と書かれた封筒が机の上に置いてあった。開けてみると中には何にも入っていなかった。これがキンちゃんの言いたかったことなのだろう。キンちゃんには両親も「あっち側の人間」だったのかもしれない。社会との断絶。両親との断絶。キンちゃんには信頼できる人などどこにもいなかったのだろうか。
享年満二六歳。

第四章
その日、どこかそわそわと挙動不審で、いつの間にかぼくの前から居なくなってしまった、キンちゃんのことは心配だったけれど、ともかく、当面の問題は宿題をどうするかだ。腰をおろしていた缶をぐらぐらさせていたら、お尻が痛くなってきたので立ちあがった。もう暗いから判らなかったが、ほのかに石油の匂いがした。缶には蓋がされていなかった。でもこんな灯油缶、いつもここらにあっただろうか。変だとは思ったが、別にどうでもいいと思った。
家へ帰りたくないもう一つの理由には、この焼却炉のことがあった。ぼくはくすぶっている火を燃え立たせるのが好きであった。よく家の庭で消えかかっている落ち葉焚きの火を、熾(おこ)して燃え立たせ、せっかく消したのにと、親に叱られた。火がいつまでも燃えているのを見ているのが好きだし、燃え上がるのはもっと好きなのである。灰を除(の)けながら、火の出元辺りをつついていると、ふいにぽっと、烟から火がついた。おっと思っているとたちまち消えそうになるので、消えてはつまらないから、そこらの枝をかき集めてくべてみた。するとぱちぱちと音がして、烟がだんだん薄れ、火が燃え上がりだした。
用務員さんに見つかるとまずいと思ったが、今日用務員さんは風邪をこじらせて、用務員室で寝ているという話だったから、心配ないと思った。それに用務員室のある建物は、別館と背中合わせに建っており、用務員さんの方から焼却炉のこの火は見えない。
ぼくはどきどきしながら、火に枝をくべていた。風に吹かれて、細い枝や木の葉がいっぱい辺りに落ちていた。裏庭の掃除をする人が、今日は怠けて適当にやったらしい。ぼくは木の葉をくべないようにした。昨日の朝降った雨のせいでまだ湿っているのが多く、くべると烟がもうもうとしてけむたかったからだ。小枝はくべると「ひとりごと」のような音を出しはじめた。ぼくが面白がってどんどんくべると、焼却炉から大きな焔が、静かな風に煽られたわけではないのに、ごう、と一瞬立ちあがるように燃えあがった。びっくりしたが、風は東からで、別館の校舎とは逆向きだった。その風も穏やかだったし、校舎に燃え移る心配はまったくなかった。
こんなことをしていると、やはり怖いのは先生だが、車の先生は皆帰ってしまっていたし、最後に残っているのを見かけたのは、こどもらから「金時ババア」と綽名をつけられていた金村登紀子先生だったので、大丈夫だと思った。生徒の噂では、金村先生は幽霊が出るという言い伝えのある、音楽室への階段が怖いから、滅多にこっちへ来ないというのである。また、音楽室への階段は、設計者が何を考えたのか、踏み段が十三段であった。
学校はしんみりと静まり返っていた。もうすっかり日が暮れて、辺りは闇だったが用務員室の前と渡り廊下に外明りが点っていて、そのお蔭で校舎裏は薄ら明るかった。

第五章
ぼくは夢中になって、かなり離れたところで小半時足らずの間、小枝を拾っていた。体育館の角の屋根のあるところには、乾いた枝切れや木の葉があった。夢中になって拾っていると、何やら別館校舎の方でばちばちと大きな音がしはじめた。何だろうと戻ってみると、焼却炉の焔が別館の建物に燃え移りはじめていた。風向きが変わったのだ。みしみしと古い校舎は、軋むような音を立てて激しく燃え立ちはじめた。ぼくは突然のことにしばし呆然としながらも、用務員室の陰で隠れて見ていた。どうしよう。もしも目撃者がいたらぼくは少年院行きだ。炎は窓を伝って軒の辺りまで広がっていた。その時、金村先生のぎゃあああという金切り声が聞こえ、全身に電気が走ったかのように、ぼくの恐怖は一気にピークに達し、矢も楯もたまらず一目散に逃げ出した。けれど、その燃えさかる様子をどこかで見ていたかったので、裏のお寺の参道の石灯籠のところに隠れて焔を見つめていた。
強く乾燥した風が吹いていたから、別館全体が焔に包まれるのは時間の問題だった。もう二階の方まで火が廻っていた。火の見櫓(やぐら)の半鐘の早鐘がけたたましく鳴った。消防団の車が駈けつけて、消火を始めた。別館の校内で、ピアノの弦がぴしぴしと切れ、ピアノが崩れるような凄絶な音が大音響とともに聞こえた。それを聞いてぼくは全身が身震いするような激しい悦びを感じた。恥ずかしい話だが、少し小便を漏らしてしまった。半ズボンの前の方が小便に染まった。帰ろうと思ったが、身体が固まったまま動かなかった。自然と目から涙が溢れ出てきた。涙は手で拭っても、袖で拭っても止まらなかった。近所に住んでいる従姉のにのえ姉さんが来ていた。にのえ姉さんは当時十九歳だったと思う。高校を出たばかりの、町の紡績工場で働いている美しい娘だった。
「姉さん、校舎が」、ぼくはしゃくりあげながら言った。
「うん、いいの」
にのえ姉さんはそれ以上何も言わず、ぼくは彼女の胸に抱かれて泣いた。にのえ姉さんの胸はやさしく、温かかく、とてもいい匂いがした。彼女は何にも言わずにぼくを抱きしめていた。ぼくは自分が偽りを働いていることに、あまり自覚的でなかった。悪いことをしていると云う意識が足りなかったかも知れない。別館の二階の窓からごうごうと焔が噴き出していた。隣接している本館の理科室の方にも燃え移り出したので、気分的に焦りの気持ちもあったが、全部燃えてしまうのも面白いような気がした。あの、いまいましい宿題をやらずに済むような気がした。お寺から南の駄菓子屋の辺りは近所の人でごった返して、噂話をしながら大勢が食い入るように火事を見つめていた。空は赤紫の恐ろしい色に変わっており、上空には薄黒い火事の雲が立ち昇っていた。その向こうに鬼の眼のように吊り上がった細い月が、紅くなって浮かんでいた。

翌日、警察による捜査があり、焼け跡付近から発見されたのは、「すみや」で販売されている灯油缶だった。目撃情報があったため、キンちゃんに容疑がかけられたが、キンちゃんは否認を続けた。灯油缶に付いていた指紋はキンちゃんのものではなかった。キンちゃんは証拠不十分で釈放された。もしかしたら、キンちゃんはあの時怪しい男が、校舎の周りに灯油を撒いていたのを見ていたのかも知れない。恐らく信じてはもらえないと思い、黙っていたのだろう。そんなこととは知らない世間は彼を疑惑の眼で見つづけた。「き○がい」なんぞみな極悪人だ。それは露骨な村八分であった。
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