こんばんわ。
寒い日が続きますね。。。
パッチを履いたら負け。
と心に決めて早10年。
心折られそうな自分が大好きな私です。
ある日、少年はゲームを作りたいと思った。
ファイナルファンタジー6をプレイして感動したから。
少年は成長し、中学に入った。
プログラミングを勉強しよう。
そう思い3年間密かに取り組んだ。
高校はゲームを作るためにプログラミングを取り込んでいるところにしよう。
推薦もあり、商業高校にした。
最悪手に職を付けていれば、将来困らないだろうという打算があった。
正直、同級生は底辺だと思っていた。
将来を今の延長線上に捉え、安易で楽な道。
少年は嫌悪した。
と同時に歪んでいた。
少年が青年になった頃、分岐点がやってきた。
勿論、分岐に至るには親のアドバイスもあった。
片や、指定校推薦が取れて、有名大学に行くことが出来る。
片や、公募推薦というあやふやな道で、芸術大学にチャレンジすることが出来る。しかし失敗する可能性もある。
教師陣の説得を無視し、後者を選んだ。
自分はゲームを作るんだ。
小学生の頃からの想いが勝った。
無事合格し、入学できた。
試験では小論文と作品提出、面接があった。
小論文はテーマを覚えていない。
作品は、3DCGを駆使したものを提出した。
面接では、将来の夢も語った。
CGを学び、デッサンを学び、音響を学び、、、
必要な要素は全て学んだ。
加えて別の学科の授業も受けて、卒業する頃には100単位超余っていた。
青年は、半分学生、半分大人という都合の良い4年間を学び、遊び、楽しんだ。
しかし、心の奥底にある歪みが改善されることは無かった。
社会人となるための試練がやってきた。
青年は要領が良く、教授推薦も得て、
満を持してゲーム制作会社に就職を願った。
最終的な内定数は100を超えた。
青年に衝撃が訪れた。
ゲーム制作会社以外に様々な業種を受けた。
産業デザイン事務所、建築デザイン事務所、ファッションデザイン事務所、映像デザイン事務所、ラジオ局、、、
その中でゲーム制作会社の待遇は劣悪だった。
ある意味で推薦ロードを突っ走ってきた自分にとって初めての挫折だったかも知れない。
良くて契約社員スタート。
悪くてバイトみたいな扱いの契約社員。
少なくとも自分が費やした十数年の価値は、そんなもののためにあるんじゃないと思った。
頑張って頑張って頑張って、その結果がコレか!
まだ頑張れって言うのか!
しかも、才能が無ければサヨウナラが簡単な扱い。
憤りを通り越して、瞬時に冷めた。
青年は別の道を探し出した。
自分に出来ること。今自信のあるもの。
プログラミングしかない。
その他もそつなくこなせるだろう。
自信はある。
少年の頃から続けていたプログラミングはOSをカスタマイズ出来る領域までに至っていた。
現に海外の友人から「こっちに来ないか」と言われていたぐらいの実力はあった。
そう思っていた。
教授推薦を大手SIer(SEの会社)に使った。
青年は後々思い知る。
もっと社会構造を調べておくべきだったと。
グループ会社も含め1万人超えの会社。
本体だけでも7000人近い。
最大手ではないけども、大手のその会社。
プログラミングが楽しめる会社。
青年は胸を張って、故郷の大阪を捨て、
期待、希望、そんなものと共に東京に進出した。
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