mixiユーザー(id:66671909)

2019年04月20日23:12

880 view

この老害のようなジジイは少なくとも僕はドイツでは見たことがない

■赤信号を2回無視、ドライブレコーダーが記録 池袋事故
(朝日新聞デジタル - 04月20日 18:49)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5589701

この飯塚という老害ジジイは、仕事をしていた時は東大卒の通産省キャリア官僚だったというんだろ。こういう戦前生まれの老害じいさんには本当に困ったものである。また、こういう老人は日本などの東洋社会で特に多いらしい。

簡単に結論から言うと飯塚のような老害はヨーロッパのお年寄りのように、「87歳まで生きて子育ても無事に終わったし孫の顔も見れたから、あとは神様に召されるのを待つだけです」」と言って、周りの家族と人たちに感謝しながら余生を送るべきだった。体力が落ちてるのに車の運転なんて絶対にするべきではなかった。

尊属のことを悪く言うのは気が引けるが、僕の亡くなった父方のおじいさんは85歳で亡くなったが、そのおじいさんの最後の3年間ほどは、普通の話も通用しないような酷い頑固でステレオタイプになり、介護をしていた父の弟(僕にとってはおじさん)家族は酷く迷惑をこうむっていた。亡くなる数日前に父と兄が病院に会いに行っても、一番仲が良かったという長男の父に対しても、
「何をしにきた?仕事はどうした?お前の仕事ぶりを昔から見ているが俺に比べると全くなっていない!俺の見舞いをするとかいって、どうせ仕事をさぼりたいんだろ?お前のような奴は全くダメだ!」
などと怒鳴って全く会話が成立しない状態であり、中学校の教師をしていた兄に対しても同じようなことを言ったという。僕は当時はフリーター状態だったから叱られるのが目に見えてるので、とても会いに行ける状態ではなかった。

また、当時、不登校状態だった東京に住んでいた孫(僕にとっては従弟)のことを心配していたらしいが、それについて言っていたこともいかにも明治生まれの頑固じいさんという感じで、孫たちは怖がって誰もおじいさんには会おうとしなかった。
「いじめで不登校だと?そんないじめなんかは、大日本帝国の頃からいくらでもあった。昔は小学校を出ると丁稚奉公に出されたり、東北の貧しい農家では娘を花街に売るという家がたくさんあった。それに比べると今の学校は天国だ。おじいさんが一緒に学校の校長先生と先生たちに謝ってあげるから、今までの不登校と自分のわがままを許してもらえばいい。そもそも、偉大なる天皇陛下が国民に教育勅語を下賜してくださり、各地に官製の学校を作ってくれて富国強兵を進めてきたのだ。その天皇陛下と政府の有難い配慮を何と心得ているのか?学校に行かないなど、言語満同断の話だ!」
などとおじいさんは言っていたというので、孫たちは怖がっていて誰もおじいさんの見舞いには行かずに、近寄って話をしようともしなかった。それで、おじいさんの介護をしていたおじさんの家族は、おじいさんが亡くなった時にホッしていた人が多かった。交通事故を起こしたじいさんも87歳だというから、恐らく、似たような「ワシが一番偉い」という感じの老害だったのだろう。


一方で、僕はドイツにいた時に多くのドイツ人の老人に会って話をしたが、ドイツ人の老人は、当然、第二次世界大戦中はドイツ兵かその家族だった人たちばかりだったが、とても優しくてリベラルな方々ばかりだった。ドイツの場合は戦後の左翼思想まみれの若者よりも、ある程度年をとった方々の方が日本人にとっては親しくしてくれる。僕のような第二次世界大戦の日独同盟に詳しい日本人の若者に会うと、ドイツのお年寄りたちは昔からの友達のようにとても仲良くしてくれた優しい人たちばかりだった。

ムンスター戦車博物館で会った元ドイツ軍戦車兵だったRさんというおじいさんは、僕と話を始めるとすぐに友達のように僕の肩に手を回して、「T(僕のファーストネーム)、アメリカは君の国に原爆を2発も落としやがっただろ?だからアメリカ人なんかみんな、こうだ」と言いながら、喉を掻っ切る仕草をした。もちろん、僕もドイツが大好きでアメリカは嫌いだったから、Rさんとはすぐに打ち解けることができた。Rさんは別れるまで昔からの友達のように、僕のファーストネームを呼んでニコニコと微笑んでいた。


それで、さらに、ドイツではこういう元ドイツ兵のおじいさんと交流をしたこともあった。

1999年春にドイツ人の家庭にホームステイしていた時に、その家族の旦那さんと長男は、毎週金曜の夕方に近所で行なわれるカードゲームのサークルに参加していた。そこに元ドイツ兵のおじいさんが2人いたのだが、そのおじいさんたちは僕が日本人だとわかると色々と話しかけてきてとても親切にしてくれた。


それで、2005年に再びその家に滞在した時に、その内の1人のおじいさんの家に遊びに行った。そのおじいさんは名前がA、家族名がSといってヒトラーユーゲントにいたのだが、とても優しくてリベラルな人で突然の僕の訪問にもかかわらずに僕を家の中に入れてくれた。

僕は日本人の年寄りに対する接し方を、一応、理解してもらった方がいいと思い、ちょっと説明した。
僕「日本では、年寄りには敬意を示さなければなりません。必ず若い人が先にお辞儀をするとか、丁寧な言葉で話すとか。ドイツでは若者もあなたのことをファーストネームで呼んでいますが、日本では考えられないことです。僕の父方のおじいさんは東(あずま)という下の名前でしたが、おじいさんに、『おい、東』と話しかけるのはありえないことです。ですから、僕もあなたのことは[Herr S](Sさん)というふに呼ぶのが日本人にとっては当然なのです」
おじいさん「君は充分なほどに私に敬意を示しているよ。だから、別に『おい、A』というふうに呼んでもいいんだよ。それに、私は若者と話をするのが好きだから、若者から名前とニックネームで呼ばれるのを喜んでいるよ」
「でも、日本では、第二次大戦時に兵隊だったおじいさんを名前で呼ぶことは、考えられないのです。それは極めて失礼なことです」

おじいさんは、僕の言ったことを聞いて不思議そうに首を傾げていた。そして、おじいさんと別れる時まで、日本流に「Aさん」と呼んである程度心の距離をとったのだが、そういう僕の態度がドイツ人のおじいさんには、全くわからないようだった。

それで僕が、一度、Aさんに次のような質問をしたことがあった。
「あなたは今のドイツの若者がダメだとか、あなたの若いころに比べると全くなってないとか思って説教とかしますか?僕の亡くなった父とおじいさんはよく若い人に『俺の若い頃に比べるとお前ら今の若者は全くダメだ』とか説教をしたのですが」
と質問をすると、Aさんは首を振るいうか傾げて「そんな説教をする老人なんて、今までに見たことも聞いたこともない」という感じの反応をした。これが、儒教とか朱子学を悪用する日本の老人と、キリスト教社会で神の前ではみんな平等という価値観のドイツ人の老人との決定的な違いだと思う。

飯塚という元官僚の老害も、「俺はもう80歳を越えたから、後は若い人に仕事は任せて俺は車の運転などの無理なことはもう止めよう」などと思って、自分の限界を知っていたら今回のような事故にはならなかっただろう。日本の老人はドイツの老人を見習うべきだ。少なくとも、僕は80歳くらいになったら自分の限界をよく認識して、無理なことはしないようにする。これは、ドイツのお年寄りたちから教えてもらったことだ。


写真左は、元ドイツ兵のおじいさんのRさんと出会ったムンスター戦車博物館。写真右は、1999年と2005年に2度会って談笑をした元ドイツ兵のおじさん。2人とも既に70歳を越えているのに青年のように生き生きとしていて、若者とよく話をする方々だった。手前の水色のシャツを着た人が戦時中はヒトラーユーゲントにいて、1945年1月から最前線で戦ったAさん。その後ろの座席にいる老人はEさんで、モンテカッシーノ修道院でドイツ軍の歩兵部隊で戦っていて、悪名高いイギリス軍の猛烈な空爆で気絶したところを英軍の捕虜になったという。その前にはシシリー半島でも戦っていた。有名な「モンテカッシーノの緑の悪魔」と呼ばれた、降下猟兵部隊の兵隊ではなかった。

9 6

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する