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2019年07月20日20:51

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■天下を獲った吉本興業と山口組 「100年の関係」■

亮ら会見提案も吉本社長「全員クビにするからな」
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=8&from=diary&id=5714323

大正14年、春吉の長男・登が山口組2代目を襲名すると、さらに吉本と山口組の関係は密接になる。港湾ビジネスを先代に任せた登は、浪曲興行に本腰を入れ、興行主の吉本から用心棒や地ならしを請け負う。このころ始まったラジオ放送の普及とともに、浪曲や漫才は全国的なブームとなり、両組織の全国進出の足場を作ったと言える。
 
 さらに昭和になると両者の関係はより密接なものとなる。東京進出を図る吉本興業は、当時浅草で人気のあった浪曲師・広沢虎造を吉本の専属にしたいと2代目登に相談した。これを快諾した登は、広沢のマネジメントを手がける浪花家金蔵と話をつけ、一定の制約の元に、広沢が吉本の専属となることを取り決めた。しかしその数年後、広沢は無断で下関の籠寅組(現在の合田一家)の制作する映画に出演することを決めてしまう。これに激怒した吉本側は、登に籠寅組との調停を依頼。登は、広沢の映画出演を白紙に戻させることに成功したものの、その後の話し合いの際、籠寅組に襲われ重傷を負ってしまう。昭和17年、登はこのときの傷が元で永眠する。

 2代目の死後、戦中戦後の混乱を極める時代、山口組は組長が不在だった。ようやく3代目に田岡一雄が襲名したのは昭和21年。実業家としても名高い田岡は、先代、2代目の培ってきた芸能関係者との関わりをより深くし、昭和33年、神戸芸能社を設立。美空ひばりなどといった昭和のスターたちの興行権を一手に握る芸能プロモーターとして活躍した。だが、やがて時代は興行からテレビの時代へ。


https://www.excite.co.jp/news/article/Menscyzo_7894/?p=3
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