前回に書きました、吉野川の宮滝から千本桜に至る道筋を、もう一度、文章の中で歩いてみたくなりました。その道は様々な顔を持っていて、ちょっと視点を変えると、また違った表情を見せてくれるからです。
巨岩奇岩に両側を囲まれた宮滝の景勝を眺めながら、柴橋で川を渡っていくと、対岸に吉野山から流れてきた清流が、吉野川に流れ落ちる小さな滝が目に入りました。「夢のわだ」と言う、何とも浪漫的な名前がつけられた非常に美しい滝です。
今では、「吉野」と言えば、誰もが桜の咲き誇る吉野山を思い浮かべるでありましょうが、飛鳥、奈良の時代は、吉野と言えば「水」であり、吉野川水系の美しさでありました。
とりわけ、吉野山に水源を発し、吉野川に「夢のわだ」として流れ落ちる「象（きさ）の小川」は、水の吉野のシンボル的な存在であり、多くの万葉歌人たちがそのせせらぎに憧れ、競って歌に詠んだ、「和歌」の聖地でありました。
宮滝をあとに千本桜への道をたどります。この道は、始めのうちは舗装されているのですが、車の往来はほとんどありません。喜佐（きさ）谷の深い杉木立の中を、「象の小川」に沿って歩いていきます。それはまさに、万葉の面影を全身で体感できる道のりなのです。
時おり、吉野の深い森の一部が開け、引いたばかりの水が新鮮な水田や、鄙びた民家が顔を見せます。とある家の庭では、隣り合った桜と梅が満開になっていました。その濃い桃色と薄い桃色が、並んで田園風景に溶け込む様は絵に描いたような美しさです。
しばらく歩くと左側に、古社の「桜木神社」が見えました。ちょうど良いのでそこで一休みをしようと境内に入りました。拝殿で参拝をして、ふと横を見ると、境内から象の小川へ降りていけるようになっていました。
私は、さらさらと流れる水の音にひかれるように、象の小川に降りていきました。手ごろな大きさの石に腰かけて、古代の人々への思いを馳せながら、水に手を浸してみました。坂道を歩いてきたので、幾分汗ばんだ手に、小川の水の冷たさがしみわたりました。
昔見し 象の小川を 今見れば
いよよさやけく なりにけるかも
（昔見た象の小川を 今もう一度見てみると、ますますさわやかになっていることだな）
わが命も 常にあらぬか 昔見し
象の小川を 行きて見むため
（私の命も ずっとこの世にあってくれないものか。昔見た象の小川の、あの清らかな流
れを、もう一度だけでよい。この目で見るために）
象の小川に浸した私の手に、清流の感触を通して伝わってくるのは、水の冷たさだけではないようです。今も昔も変わらない、その美しいせせらぎの中に、象の小川に魅せられた、多くの万葉歌人たちの熱い思いが、今もなお込められているようでした。
「万葉集」には、数多くの歌人たちが登場し、その個性を生かした味わい深い和歌を詠んでいます。その中でも特に有名な方は、中大兄皇子（なかのおおえのおうじ）、大海人皇子（おおあまのおうじ）の兄弟から熱心に愛された美貌の女流歌人「額田王（ぬかたのおおきみ）」でありましょう。
今でも皇室では「歌会」というものが良く行われていますが、万葉の昔には、「和歌」といものは、現代では信じられないほど重要な意味合いがあったのです。
万葉集にも、日本は「言魂（ことだま）の幸（さきわ）う国」という表現がありますが、古来より「言葉」には力があると、日本では信じられてきました。私も、それは真実であると思っています。
消極的な言葉を数多く使う人は、打ちのめされた人生を送ります。嫌なことがたくさんあるから、否定的な言葉しか出ないのではなくて、マイナスなことばかり言っているから、嫌なことを引きつけるのです。これは、現代人にとっても革命的な真実ではないでしょうか。
これに対し、積極的な言葉には、命があります。力があります。すべてのものを良き方向へ向けていこうというエネルギーに満ち満ちています。身近な人を観察してみるとわかります。いろんなことがうまくいく人というのは、多くの方が「前向きな言葉」を外に出しているはずです。これも、何事もうまくいくから積極的な言葉が出せるのではないことは、「消極的な言葉」の場合と同じです。
「和歌」というのは、その「言魂」の力を活かした儀式なのです。だから、当時の天皇はたくさんの和歌を創り、それを声に出して「言魂」として詠みあげることによって、時に厄災を払い、時に万民の幸せを天に祈る力として利用していました。つまり、当時の和歌というのは、決して趣味ではなく、言魂の力を駆使して行う祭祀でもあり、政治でもあったのです。とりわけ、額田王が和歌を通じてあやつる言魂の力は、相当なものだったと言われています。
単に、和歌に関する技法や表現力だけとりあげれば、額田王より優れた方は数多くいたと思います。けれども、それが「言魂」という観点になると、彼女にかなうものはいなかったのです。
額田王の言魂の秘密は、神にも見まがうばかりの、彼女の「心情の美しさ」にあると、私は思っています。額田王の和歌を読んだり、人となりについて挿話を聞くほどに、本当に彼女は心の美しい女性だったのだなぁというイメージが私の中で強くなっていきます。そんな額田王の輝かんばかりに澄み切った心情が、「良き言葉」として形を持ったとき、闇を払い、光を増幅する強力な言魂となって世を照らしたのです。
いろんなことを考えながら静かに歩いていましたら、上のほうから人のにぎわう声が聞こえてきました。もうすぐ蔵王堂の参道に合流するのでしょう。
宮滝に始まり、「象の小川」に沿って万葉の世界に遊んできた夢見心地の散歩から、そろそろ現実に戻る時がやってきたようです。千本桜の参道に足を踏み出した私は、花見客の雑踏の中に吸い込まれていきました。
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