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2019年12月11日20:26

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荒木村重の裏切りと 信長による一党惨殺



荒木村重という戦国の武将名ぐらいは 一般に知られていると思います

荒木は信長を裏切り 有岡城の居城から 側近の数名だけを伴い 城を抜け出して 家来や妻子を見捨てたとされていますが真偽は不明です

信長は一代であらゆる惨殺と殺戮をやっていますが この有岡城の籠城兵に対する

殺戮のむごさは比類なきものとして史実に残っています

天正6年(1578年)7月、三木合戦に参戦し、羽柴秀吉軍に属していた荒木村重は、突然戦線を離脱し居城であった有岡城(伊丹城)に帰城してしまった。織田信長に謀反を起こしたのである

謀反の原因は信長の部下に対する苛酷な態度にあったのではないかとされている村重は波多野氏の氏族と言われており、37万石の所領で信長より摂津守護を拝命している。『陰徳記』によると石山合戦で信長と交戦中の石山本願寺へ毛利勢と通じた村重が兵糧を密かに搬入したとの噂が流れたり、

信長の命により石山本願寺に和睦の交渉役として出向いた時に、城内の困窮ぶりを目のあたりにし、交渉を有利にすすめるために単独で米100石を提供したという説

『武功夜話』では神吉城の攻城戦で城内の内通者であった神吉貞光 は村重と旧知の間であったため、落城後羽柴秀吉は貞光の助命を許した。しかし、貞光は直後に別所長治のもとに走って羽柴軍と対することになる。ためらいもなく別所のもとに走ったことから、貞光と村重は通じており、村重も疑われることになったという説を記している。

有岡城の戦いで処刑を命じた人数 荒木一族と重臣衆36名

家臣の妻子衆250名それ以外の人質衆男性150名、女性500余名

合計約一千名

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12月13日辰の刻に 現在の尼崎近くの七松という地で
荒木一族が磔にかけられることとなった、 刑場へ向け人質たちが引き出されていった。

さすがに歴々の上臈衆であり、いずれも美々しき衣装を身にまとい、
すでに命叶わぬを悟って美しき姿で静かに縄尻でつながれ居並んでいた。

ただ、磔台が足らず 年増女はその場で刺殺された残った若い女たち 全員を木枯らしの舞う広場で素っ裸にされ 先ずは雑兵の輪姦の宴が催された 

検分に立ち会ったのは 滝川一益と明智光秀

【いいか 女子供と言えど 容赦はならぬ! なぶり殺せ!一人でも生かせば そちらの素っ首は吹っ飛ぶと思え!】

などと信長の厳命が下っており 光秀などは脚が震えつつ遂行したと思われます

光秀と違い一益は こういう殺戮を好んでおり、松明を焚き 真昼のような明るさのもとに

強かん 輪姦の地獄絵図を現出させた

その前で陣取った 一益は 暖をとりながら俄か酒宴に顔をほころばせ 女たちの悲鳴や絶叫を快楽の肥やしとした・・

その宴が佳境となった夜半から 合図の鼓音とともに処刑が始まった
鉄砲をもって撃ち殺す 、槍と長刀で刺殺して処刑していった。

ついに磔柱が立てられ 百二十二人の女衆が 左右から鋭い槍先が斜め下から突き上げられた一度に上げる悲鳴は天にも響くばかりであり、

見物の軍勢は 目もくらみ心も消えて先ほどまでの輪姦劇の

騒ぎなどは嘘のように静まりかえり・・絶叫だけがこだました


処刑の様子を目にした者は、二十日三十日の間は
その有様が瞳に焼きついて忘れられなかったということであった。

この他にも端侍 や家来の妻子と歴々の女房衆に付いていた若党以下合わせて7百十余人が矢部家定検使のもとで家四軒に押し込められ、
周囲に乾き草を積んで焼き殺された。男女は風向きに従って魚の群れのように上へ下へと並び動き、 灼熱の炎にむせび、躍り上がり跳ね飛び、
その悲鳴は煙とともに空へと響きわたった。

その有様は地獄の獄卒の責めもかくやと思わせるもので、
みな肝魂を失い、酸鼻をきわめ 二目と見ようとする者がなかった。

※史実を除いて 全ては私の妄想です
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