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2020年01月25日09:09

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片渕須直 「この世界のさらにいくつもの片隅に」(丸の内TOEI)

 「この世界の片隅に」から数えると3回目の鑑賞だが、「この世界のいくつ
もの片隅に」は、単に尺が長く、りんさんのエピソードが加わっていると言う
だけでなく、映画の作りが全く違う、別の映画になっている。

「この世界の片隅に」の感想はこちら。
 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1964458346&owner_id=6645522
 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1957086664&owner_id=6645522

 その違いは、パンフレット掲載の、片渕須直監督のインタビューの見出し、

「前回はある時代についてのドキュメンタリーでした。
 今回はすずさんの内面と喪失を、文芸的に描いています」

 この言葉で、端的に表されるだろう。

 前作は、「戦争」と言う大きな時代の波に翻弄される、北條の家の人々を
実物大に描く、まさにドキュメンタリーであった。それゆえ、作品の焦点は
「時代と人々との関わり」にあり、すずさんをはじめとする人々の内面は、
その関わり方を描くのに必要不可欠の部分が優先されていた。

 「この世界のいくつもの片隅に」は、「戦争」の時代は背景に退き、
すずさんとりんさんと言う表裏一体の2人の女性の生き様が中心になって
描かれる。

 それが最もよく表れているのは、すずとりんさんが、りんが働く遊郭で、
妊娠と女性について話し込む場面だろう。月の乱れが、妊娠ではなく、
ストレスからくる体のリズムの変調であったことを、すずは恥ずかしそうに
リンに語る。
 対して、リンは、戦時下における女性の生理の大変さ(紙も脱脂綿も
戦時下ゆえ、欠乏している)や、妊娠することの身体的変化(母親は最後には
歯が全部抜けてしまった)や、子供が生まれても育てることのできない家庭
がある(女の子はいざとなったら、遊郭に売れる。自分のように)と、周作
の「妻」と言う社会的位置にあるすずとは、女性にはまた別の側面があること
を積極的に語り、最後に、「この世界に居場所は、そうそうなくなりゃせん
のよ」と締めくくる。

 戦争という極限状態の中で、「女性」が何と向き合って生きねばならない
か、象徴するシーンと言える。

 また、すずさんの「女性」としての存在から目を背けないために、周作と
すずの夜の一場面も追加されている。すずは、リンと周作との関係を直感して
しまい、自分は代用品なのでは、という思いから周作を拒絶する。「代用品の
こと考えすぎて疲れただけ」という台詞は、時代を問わず、男女を問わず、
「愛情」というものの儚さと大切さを教えてくれるだろう。

 ちなみに、このパンフレットは1000円だったのだが、大変なスグレモノ
で、特に、追加シーンをまとめて解説してあるのが嬉しい。

 リンの同僚で、若い水兵と入水未遂をし、それがもとで風邪をこじらせて
はかなく死んでしまうテルさんのシーンも忘れがたい。ところどころでる、
九州弁がテルさんの歩んできた遠い道筋を示している。そのテルさんのため
に、積もった雪の上に、南の島々を描いてやるすずさん。すずさんは、
北條家で見つけたリンドウ柄の茶碗を、テルさんに託して、リンに渡そうと
するのだった。

 「浦野(北條)すず」という女性が何を感じ、何を考えながら戦時下を
生き抜いて行ったか、2時間半以上を費やし、映画はべたつかない、さらり
とした感触で、しかし深みを持って語っていく。幼馴染との再会というすず
さんにとって重大な出来事も、原爆という日本にとって巨大な出来事も。
原爆投下後、すずさんの妹、小林の叔父、隣組の知多さんが、広島で被爆し
、原爆症にかかっている、という事実は重い。

 ただ、私は原作を既に読んでいるせいか、これらの追加シーンの中では、
すずさんやリンさんよりも、すずの舅の北條円太郎が、軍需工場で働いている
シーンが挟まれているところが最も心に残った。総じて、オリジナルでも
長尺版でも、「この世界の片隅に」では、男性軍の影が薄い。それは、
あくまで「嫁」であり「主婦」でもあるすずの日常を中心に描くため、
そうなったのだろう。そんな中、普段は茫洋とした北條円太郎が「軍需工場
で働く人」なのは、「この世界のいくつもの片隅に」にも一時代のドキュメ
ンタリーとしての側面をまだ残していることを表していると思う。

 「昭和の子」である我々は、父母から聞かされた、あの「戦争」をどう
語りつげばいいのか。難問である。この映画とこうの史代さんの原作も、
その答えの一つの有力な形であろう。

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