2019/12/14 クリパお疲れ様でした。
『うたかたの日々』で参加しました。
以下読書感想文
前半部分はメルヘンな恋愛小説のようで幼く感じ、きっと好きになれないだろうと思っていたが、最終的には好きになった。
美しくないものに対して排他的な潔癖さは子どもっぽく感じる。でも、その潔癖を貫いて不幸になることをやむなし、とするヴィアンの姿勢は強さだと思うし、同時に生きづらさでもあると思う。
『うたかたの日々』は幻想的な恋愛小説だけど、約束された悲劇の物語でもある。それはヴィアンの結婚観が理由にあるのではないかと思う。
この本は、労働と老化は一貫して醜いものとして描かれているけど、結婚とは「愛する人との未来のために安定した収入が必要になること(に対する了解の証)」であり、「愛する人が老化してゆく姿を隣で見続けるという誓い」でもある。とすると、コランがクロエと結婚する時点で悲劇は決定づけられていたと思う。
ヴィアンは元々お金持ちで、一家に労働は無縁だった。のちにこの生活は崩れ、父は労働を余儀なくされるのだけど、この没落貴族的な人生がヴィアンの結婚観に歪みを生んだのではないか。
働かなくても生きていけたころは、世界にはこんなにも素敵で美しいものがたくさんあるのに、どうして働いて時間を無駄にするのだろうと訝しんでいたと思う。
時にはバカにすらしていたのではないか。そこに悪意はきっとない。
事実、労働とは時間を切り売りする行為だと思う。本来、私たちは働かなくていいならいくらでも本を読み、音楽を聴き、鼻歌でも歌いながら愉快に過ごすことができる。
働くのは生活のためで、つまりお金のためだ。生きることはお金がかかる。死ぬことにすらお金がかかることは皮肉のようだけど事実だ。
ところで、私は小説を書くのだけど、小説を書くにも時間がかかる。時間はいくらあっても足りない。
小説を書くということがインクを紙に染み込ませる作業だとしたら、そのインクとは時間でありお金だと思う。
だから罪悪感がある。だってその時間で仕事をしたら、生活はもっと楽になるのだ。
労働は時間がかかる。小説を読むにも書くにも時間がかかる。生きるためにはお金も小説も必要なので、不真面目な物書きのくせに「もし」と夢想することがある。
もし小説で成功していたら、私は仕事をする必要がないし、罪悪感を覚えることもきっとないのに。
飛躍するようだけど、ヴィアンも同じだったのではないかと思った。
同時に、私が小説をやることは、子どもっぽく思われるのかもしれないとも思った。
自分のために生きるということは、しばしばワガママと混同される。事実ワガママだとも思う。でも私は、それを実存だと思いたい。その選択の責任を負う覚悟があるとしたら。
「貧乏人の葬式」をせざるを得なくなったとき、コランは腹を殴られたり石を殴られたりするが、一切の抵抗を見せない。それはコランの覚悟であり、ヴィアンの覚悟だと思う。
「愛する人と結ばれたい」「好きな人たちは幸せになってほしい」「その妨げになるものについては、誰であっても死んでいい」「働きたくない」「老いたくない」「美しいものだけに囲まれていたい」、……いくらなんでもワガママが過ぎると思う。だってそんなの無理だ。でもヴィアンも分かっていて、だからこその悲劇だった。
しかし、コランは後半、病に伏したクロエのために労働に屈することになる。それを愛の力というにはあまりにも運命に依存した恋だと思うが、本来「ワガママを貫いて死ぬ」しかなかったはずのコランが、「生きるための(生かすための)労働」を選ぶというのは、愛の力と言わざるを得ない。
だからこそこの本は恋愛小説なのだと思った。
「ワガママを貫いて不幸になる覚悟」も実存だと思うけど、「愛する人のために忌むべき労働に屈する覚悟」もやはり実存だ。
コランは覚悟ある男だと思う。しかしシックにはその覚悟がなかった。シックが背負うべきだった責任は、背負うべきでなかったアリーズが引き受け、痛ましい悲劇となった。でもそれは個人主義的な生き方には反している。
私はこのアリーズが好きだった。好きになってしまったものを自分ではどうこうできず、自分を変えられず相手を変えられないがゆえに世界を変えようとする。
私は理解できた。こういう「分かるけどやっちゃダメ」な事件というのは、総じて胸が痛くなる。最近こういうニュースが多いのですごくつらい。
幻想的な恋愛小説をいうにはあまりにも破滅的な物語、それは幼さ故かと思ったが、「ワガママを貫くという強さ」であると読み終えた今は思う。
だからこの小説が好きだと思いなおすことができた。自分にも幼さやワガママな部分があるから。
やさしい世界が好きだから、自分の好きな人間以外みんな死んでしまえばいいのにと思うときがある。好きな人にだけやさしくしたいと思う。ワガママだと思う。
でもそれは傷つきたくないからだという自覚がある。自分を傷つけるものが何もなくなって、ぬいぐるみとやさしい猫だけがいる寝室に引きこもれば、いつまでも幸せでいられると信じたくなる。
ヴィアンも傷つきたくないと願ったのではと思った。
そう考えると、冒頭の「ぼくのビビへ」は切ない。ヴィアンの最初の妻ミシェルは、パルトルのモデルでもあるかのサルトルに寝取られてしまうのだから(´;ω;`)
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