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2019年08月22日23:18

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首のヘルニアの再発と 幸せ

首のヘルニアの再発は この私の状況 (もっともっとネット活動が必要で、しかも 歌や踊りがその活動の中軸で いよいよそこを生かす段階へ入ってきたという状況)にとっては

最悪の事態ではある。


これは 数か月前に 再発したのを 数カ月かかけてやっと この時期に間に合わせる形でリハビリに成功しかかっていたところだったという事なのだから なおさらだ。

ここ数日 体の具合によって 日記も書けなかった状態。  

それがこじれた形で すこしだけしびれが出てきていたところ、 そこに ここ数日、仕事(設備業)の方で 首を変に曲げないと出来ない仕事が入ってきてしまったのだ。

それは 明日まで続く。

少しだけ具体的に書いてみるとこんな感じだ。

水道配管の防火対策のための防護管のつなぎの部分の補修としてその部分にビニールをまくという作業で べつに普段なら何でもない仕事なのに、

これが アスベストなどの関係で防護マスクとヘルメットが脱げない形であるため 配管スペースが小さい複雑に入り組んだ中でのその作業は、  この首の状態にとってはきつい大勢となってしまう。

という事なのですが、

祈るような気持ちになるのは、 あしたまで、なんとか首のヘルニアの状態がある限度をこさないように、ということなのだ。

なぜ、 こんな状態の時に 早く寝ればいいものを その状態の「日記」を書く気になったのかと言うと、

これが、 さらに最悪の事態となってしまったとしても  それを受け入れる心こそが宗教の心だという事を語っておきたくなったからなのです。

へたすれば、しばらく書けなくなるかもしれないわけです。

この状況を利用して、 キリストが語ったはずの「貧しさに安んずる人は幸いである」という精神について、 メッセを入れておきたかったんです。


例えば 私が 3歳の頃の重い肺炎の時に ペニシリンの到着があと5分遅れていたら、私はその時から この大地には息をしていなかったこと。

それと同じように もし 自分の母親から私とそっくりな別の人が生まれていても私はいなかったこと。

でも 実際には 生き延びた私が ちゃんとここに71才にはなっていても 生きていて今このキーボードをたたいていること。


つまり いなかったはずの自分が 何らかの形で生かされている事を 考えてみれば そこのどんな目標があり そのためにどんなに頑張っていてもなお、 それが例え挫折しようが、 それはそれで 同じくまったく無かったことにすればいいだけなのだ ということを、ここでちゃんと考えて欲しかったのだ。

足がびっこになろうが、 それもまた人生。

病気で寝込もうとも、それもまた人生。

ほんとうは苦楽ともに 想い合わせて「妙法」と唱える心があれば最高なのですが、

明るい心、幸せな心を こんな程度のことで失わないこと、 いやその程度では失うことのない幸せや明るい心の存在を知ってほしかったのだ。

まず そういう心があることを知っておいて欲しかったのだ。

大きいも小さいも無い、 貢献できるかできないかも無い、 役立つ役立たない、 勝ち負け、成功と挫折も両方とも関係なく  ただ ひたすら、人間として当たり前と思える道を歩き続ける  これだけが 宗教の心だと私は思う。

また、 この時期に この状態というのは、

まだちゃんと生きているのであれば、

それは、何か神仏に守られていることのようにも思えるのだ。


たとえば、 この状態では、また 歌が歌えなくなるかもしれない。

もちろん 踊りも踊れなくなる。

ところが、 この状態でも 幽玄なら踊れる。

しばし、その表現に集中してみよ、という神からのメッセなのかもしれないとかいうふうにも 思えてくるのだ。

昔 ある老占い師の前で、一時間かけて5メートルしか進まないだけの踊りを ただ歩くだけの踊りを踊ったことがある。

さすが これでは、自分の内側に感じるものをつたえることはできなかったかなと 思っていたらその老占い師は 「感動した」と語ってくれ、

自分が占いの道に進んだ時の 原点を思い出させてくれたと 言ってくれた。

大海原で 誰もいない静かな海のただ中に 月が静かに映っているのを見て、 その静寂さの 奥深い幸せにこそ、 多くの人を導く使命を悟り、 その手段としての占いの道こそ自分の道だと 気が付いたのだそうで、  その原点を 思い出したというのだ。


自分の この道も その原点をまず完成すべき時が来たのかもしれないと、ふと思えて来たという事です。

こうした存在からのメッセのようなものも、 もし この状態への愚痴の心で乱されていたら 受け取れなかったことでしょう。


ふつうは「心の貧しき人は幸いである」という訳になっているところなのですが、そのキリストの言葉

「貧しさに安んずる人は幸いである」のほうの訳を ここでは、その意味をかみしめながら 考えておいてみてください。

今日は 以上です。

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