鬱になって以来ネットには随分救われている。
リアルな知り合いには一人も居ないのに、ネットの中には自称病気の人が限りなく大勢居る。
落ちている時、そんな人達のグダグダしたブログやツイートに埋もれる。
同じような生き辛い人の愚痴を眺めて、ただ「わかる」って思いたい。
そういうグジグジウダウダした時間を過ごすと何故か癒されて次の日また頑張れる。
だいたいが「自分はADHDじゃないか?」「ADHD、鬱病あるある」「鬱病の生活辛い」みたいな内容。
「あるなー」と共感したり「ちょっと違うな」とひっかかったり。
どれもただの愚痴だから「違うな」と思うなら見なければいいだけの話なんだけど、でも「お風呂に入りたくても病気だから無理、本当に出来ないんです。健常者にはわからないかもしれないけど」とか、
「鬱や発達の苦しみ被って生きる辛さわからない健常者達。この世は冷たい」等の意見には「ん?」と思ってしまう。
鬱や発達を「食らって」みたいな書き方をする人のプロフ見るとだいたい過去に何かやらかしている。
そのショックから立ち直れない状態を「病気が襲ってきた」と被害者面してるような...。うーん。
そして精神のアップダウンでしょっちゅう休んだりミスするようになり叱責されると「世の中は冷たい」等と嘆く。
不安な世の中、高校生さえさぼる事なく真面目に働いている。
いやむしろ学生が一番求められている。
健康な若い体、素直な心、親に守られてしっかりした身元。
そんな子がいくらでも居るのに、根暗で心身不調な中年をわざわざ雇いたい経営者が居るわけがない。
鬱が一番ひどかった数年前、見かねた旦那は私を実家に戻した。
私の母は他県から集団就職で上京して誰の力強も借りずに生きてきた人間だ。
両親や兄弟との死別、私の父の躁鬱、姑との不仲..あらゆる事を自力で乗り越えた。
そんな母は布団にこもる私に「育て方を間違えた。あんたの性根は腐ってる」と言い放った。
「そうやって病気のせいにして一生悲劇のヒロインやってろ」と。
しかし夜になると母は寝室で泣いていた。
年老いた小さな母が泣く姿を見て復活したいと思った。
「恫喝され同じミスを繰り返す。大事な事を忘れる。ADHDホント嫌だ」
恫喝されれば誰だって慌ててしまう。怒られていない人も居るならやっぱり自分にも悪いところがある。
「最初だから仕方ない」と言われるうちに仕事を覚えなくてはいけない。それが無理ならせめて時間通りちゃんと来るとか。
「健常者よ。あなた達も何時何時精神疾患になるかわからないのを頭に入れてほしい」
何故そんな風に思えるのか。
図々しい。元気に振る舞っている人にも加齢に伴って不幸は必ず訪れる。
そういう時に崩れない人には備えや覚悟があるだけだ。
今の世の中、精神科で不調を訴えればだいたい薬をくれる。
専門家の記事を読んだけど、自分をADHDと疑う人をテストするとだいたいは正常の範囲内でそれを告げると皆ガッカリするそうだ。
上手くいかないのを病気のせいに出来れば腑に落ちるからだろう。
自分も駄目な人間だ。今日もグダグダしてしまった。
でも「健常者さん理解して下さい」とは決して言えないな。
自分が社会のお荷物だったとしても、昔から優れた者も病気な者も老いも若きも混在するのが社会なのだと思うから。
そんな事を言いつつやっぱり見てしまうTwitter。
「結局半年で首になった。精神疾患者にどこまでも厳しい社会」
そう呟いてる人はここ1ヶ月休職していたそうだ。
入社半年で休職してしまう人を受け入れてくれるほど余裕ある会社はもっと優秀な人を雇うだろう。
たしかに母の言う事も一理ある。
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