<良い魚、悪い魚>
さらに同じことが良い魚、悪い魚のたとえでも繰り返し語られている。
マタイ 13:47 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地
引き網のようなものです。
13:48 網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に
入れ、悪いものは捨てるのです。
13:49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい
者の中から悪い者をえり分け、
13:50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
この箇所を見たい。
マタイ 13:47 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。
魚とは、主が魚を捕る漁師であるペテロに「人間を捕る漁師にしてあげよう」と
語られたように、クリスチャンのたとえである。そしてここでの結論も
たとえ救われて洗礼を受けたクリスチャンでもその歩み方しだいで
結論、行き着く先は異なるとの教えである。決して「一度救われたら
決して救いからはずされることはない。どのクリスチャンも間違いなく天国へ
入る」などのインチキ教理は語られていない。
13:48 網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。
しかし、そのような魚の中にも区分があり、良い魚、悪い魚があることが語られている。
そしてその結論は異なり、いく先は異なるのである。
であるので、ここでも「一度クリスチャンになったら、決して救いから外れることはない。
どんなクリスチャンも救われたら同じ天国に入る」などとのインチキな教理は語られていないことがわかる。
そうではなく、同じように救われても個々のクリスチャンの歩み、行いにより、
行く先も異なるし、天の御国に入れない可能性も大いにあると理解すべきなのである。
13:49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、
13:50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
世の終わりには、悪いもの、神の律法を犯し、破り、悪を行なうクリスチャンは
えり分けられてしまう。
そして、火の燃える炉に投げ込まれてしまう。これは火の池のことだろうか、
どちらにしても火の燃える炉ではろくなところではない。
そして、そこに投げ込まれた人々は、「泣いて歯ぎしりする」ようになる。
何故彼らはそのように、泣いて歯ぎしりするのか?それは、自身の行いをないがしろにしてき
た的外れなクリスチャン人生への後悔のためであり、また
インチキ教理にだまされてきたことへの悔しさと理解できる。
しかし、そのときでは遅いのである。
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