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2021年08月03日23:00

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深淵

 

 

二度寝で見た夢は運動場みたいなところをぐるぐると人が走っている場面だった。そうして、もう世界線上で会いたくない人に対して、「もう会わない」って言ったら、その人はぶるぶると首を振っていた。同じ人だが像は2つ、中学生時と大学生時くらいのカタチ。

 

時間が円みたいな流れなのではと考えていたからだと思う。例えばこういう時間の概念の中で生きられる生物(異星人みたいな三次元より上の存在)であれば、物質の直線的風化とは関係ないのだよなぁって。

 

だとすれば、実は世界線も円環みたいなものなのかもしれない。というのは、曼荼羅のカタチから。曼荼羅はその人物が創る宇宙のカタチみたいなものだとカントさんが言っていたらしい。曼荼羅展とか見たことは無いが、なんとなく円をベースにしているイメージ。

 

どういう人と現実の世界線で近くなれるのだろうな、全然想定できないわ。

 

思い付く発想が明後日なことが増えてくる。

目に付く散歩の犬が全部可愛い。

 

さておき。

 

朝は雨だったため、なんとなく電車にした。あーこれは休憩室でお弁当になって、画像貼れないなぁと思ったが、別に弁当画像を貼ることは日課となりつつあってもそれがないことによって違和感があることとはしていない。なんなら弁当自体もそれくらいの意味合い。

 

おそらく習慣が無意識の中に組み込まれるとそれが欠けたときに違和感、もっと言えば喪失感が生じるのだろうな。欠けるという意識がなくなるから。これはこれで良きことなのかもしれないと本気で思う(後述)。

 

ともあれ、お昼休憩には雨は上がっており、いつもの公園で食べることができた。魔女みたいな人がはとぽっぽに供物を撒いていて儀式めいたものを感じたが、お構いなしに隣のベンチに座る。こうはとぽっぽに餌を撒く一定するの人ってどういう気分でやっているのだろう。仏教でいうお布施みたいなものなのかな。ということで、本日のお弁当画像ははとぽっぽを捉えようとちょっと遠目で撮っている。端っこに1羽のぽっぽ。

 

仕事はふつう面白かったまる

このシフトだと、帰りのスーパーがやたらと込んでいる。大人しそうな眼鏡の店員さんが1人でレジをやっている。僕はこの人の接客はとても好き。丁寧だし早いし、セルフレジなのにレジにかごを置いた後いちいち頭を下げてくれるところがたまらない。

 

ただ、今日は同じく丁寧だったが、空気に余裕のなさというか「怒気」を感じた。静かに怖いお人だと思ったが、無理もないなとは思う。だって他にレジ要員が2人居たが、2人してかごの整理でもたもたしている。いや1人はレジ入れよ(怒)という感じという予想。これは仕事における正当な怒りだと思った。怒っていても接客はブレてないし(今日も礼はあった)、プロフェッショナル。宥められたら良いなと、いつもより大きめの声でありがとうと言ってみたが、この人からしたらうっさい! で逆効果だったかもしれない。

 

ここの店員さん達1人1人具体的に描写できそうなのだが、これってほぼ週5日見ていたら当たり前という気もする。別に特になんの下心もないただの目に入る生活の描写。いや、当たり前ではないか、ふつーはレジの人とか準人間の風景みたいなものか。知らんけど。

 

人の日記を見て思うのだが、ほとんど無関係の他人って出てこない。あまり書いて個人情報に引っかかるみたいなところを意識しているというよりは目に入ってこないのだろうなという感じ。それとも何か書いてしまうと禁則事項に引っかかるのか。

 

そもそも日記の概念が、自分の日々の記録を綴るというものである以上、特に他人の像みたいなものを言語化することは求められてない。僕は一期一会の誰か(岡山行ったときに挨拶してくれた散歩中の貴婦人2人組、コンビニで「おおきに」って言ってくれた店員さん、当日券を予約扱いで値引きしてくれた方)も好きだが、これは、無関係であるからこそ僕の最大限で観測できるということはある。関係になると、相手の視界というのも当然加味しないといけない。

 

関係は相互譲歩というタガ。

僕だけやたらと人生楽しんでいてもしょうがないだろうし。

 

大学の日本史で、歴史の考証が言葉に重きを置かれているのは昨日書いているのだが、ここで、言葉から構築される人物像というのを考えた。

 

人が書いている文章って、もちろん誰か具体的な人物が書いている訳で、その文体から具体的な人物像が仮想的に読み取れる。歴史であれば同じ時代の別の文章と照らし合わせることで真実である確率を高めることができるのだが、照らし合わせることができる別の文章がないから、虚構的な言葉でもその人の人物像になる。ここはもはや当人の倫理感の話で盛ってしまう人は盛るし、真実を書こうとしても言葉が見つからない人も居る。

 

そういう意味で、身の丈にあっていないというか、ちゃんと言葉の中身が分からず書いている人の人物像って全く読めない。どれだけ賢そうなことを書いていたとしても。

 

まぁ、僕の文章から僕の人物像が読み取れるのかと言われたら、「読んだ人によりけり」と答えたい。欠けている自分でもいいし、孤独でもいいし、ただ楽しく世界を食べている人物が本当に存在する訳がないというバイアスで読めばただただやべー奴だろうし。

 

行動経済学入門ももう3周くらいしたから、次の本にいかないと詰まらない。

個人的にはこの学問そんなに好きではないが、人の社会的ふつーの行動を最も捉えている気はしている。認知バイアスとか経験則によって歪む思考とか。

 

人は判断を誤りがちというバイアスの話は、「AIは人を憎まない」でも出てきている。

 

認知バイアスは人の生来的機能なのだというのは、ほんとそうだと思う。それがなかったら今の人はない。思考が楽をするという意味合いではなく、当たり前のことには思考のリソースをかけずに、次に行くということ。蛇口をひねれば水が出るという当たり前に対して、いちいちほんとに次も出るのか? みたいなところに意識を向ける意味はない。

 

ただ、現代の比較的安全な社会においてはこのバイアスは正しさの証拠みたいになっている向きがあり、それは違うかなとは思う。現象の認知が価値観に転換されている。現象と価値観を混同するようになったという証左だろうけど。

 

人は功利主義になってはいけないと合理主義者が言うってかなり面白いねじれ。

 

 

ここで、人のキャパを考えている。僕の完全な持論として、世界観と当人の語感って結構一致していると思っている。触感優位な人は体感を重視するし、視覚優位な人は頭の中を重視するし、聴覚優位な人は世界の当たり前を重視するとか。味覚優位な人は世界を自分の感覚で味わうことを重視する。脳科学の茂木さんのクオリアの話で、人は現実を五感の複数が一致することと定義しているというのがあったことを含めると、僕の存在は読んでいる人にとって特に現実ではないのだろうなとは思う。いや、それで全然構わん。

 

ここで言いたいことは、現実それ自体が当人の定義したフィクションでしかないのではという説。原始仏典とかスピリチュアルとかからすると、そういうことなのだろうなというのはある。

 

ただ、ここで完全に遊ぶためには、他人が自分と対等な存在としての人間ではないと設定できないといけない。これは尊重とかいう意味ではなく、単に情報量の話。情報量が少ないのであることからして、自分の方が優位として遊べば良いということ。まぁどうあっても自分と同じ水準で他人を感得できることは在りえないし。

 

最後。

 

色々読む分野が拡がっているのは、日記を読んだ通りだが、読めば読むほど世界のことが分からなくなってくる。物理学は面白いし、知ったかぶりのオトナがいかに雑に世界を捉えているのかも見えてくるし、もはや生まれなおしたくらいの視界である。

 

具体的な人のことも全然分からない。

眼鏡の好ましい店員さんのことも、僕からしてそう見えたというだけ。

 

ただ、意識がこうなったとしても、無意識はもっと合理的だから、収集した分で新たなモノサシが構築されているのだろうなという感じはする。感情を設定するのは意識ではなく無意識だし。

 

そう感情を生じさせているのは意識ではないんだよな。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。


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