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2020年04月07日04:07

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宣言

 「マスクを着用してください」朝礼で管理者のメッセージが読み上げられる。その場にいた十人ほどのメンバーで着用していたのは二人だった。いずれも四月から異動になった人間だ。この職場にはマスクがない。

 「マスクの箱が無くなってるな」上司が独り言のようにいったのが何日か前。上から言われていたものの、殆どの人間がマスクなどしていなかったため、誰もが気にも留めない。「盗まれたんじゃないですか」誰かが軽口をいったくらいだ。恐らく壁一枚隔てた隣の会社の人間が持っていったのだろう。彼らの方がウイルスに晒される危険は高いのだし、そうだとしても異論はない。この事務室内で不満を漏らす者はいなかったので、皆が自分と同じ認識だったと思われる。
 さて支度を済ませ、換気の悪い事務室からさっさと出て行った。長居は無用だ。公用車のエンジンをスタートさせ、町はずれの集落へ向けてハンドルを切った。

 頂に寺社のある山を越え、大きな橋を渡れば集落に着く。途中の山道から見える桜の木々には花がつきはじめていた。近頃の、不穏な人の世とは関係なく、季節は順調に移り変わっている。
 橋の手前までくると往来が増えてきた。田園地帯の、町はずれともなれば交通量は少なくなるものだが、この辺りは三つの町が隣接しているためか意外なほど交通量が多い。田圃道でスピードを出しがちなので気を付けなければならない。緩いカーブへ差し掛かると突然カラスが急降下してきた。何かを落とし、すぐ飛び去っていった。何かとはクルミである。車にかたい殻を割ってもらおうという作戦だ。頭がいいというか、ずる賢いというか。

 橋を渡る。橋の上から、この大きな川に幾つもの支流がある様子がよく分かる。あるものは本流に沿って流れ、あるものは途中で流れを止め大きな池のようになっている。湿原の川のように蛇行していたりもする。このような水辺の環境は鳥類にとって住みよいようだ。流れのない場所ではカモの親子が浮かび、湿地ではシロサギが身動きせずに立っている。堤防をキジが駆けていき、電信柱の上からはトビが眼下を睨んでいる。鳥たちにとって楽園ともいえる光景だ。
 その付近に住むお客さん宅へ行くと、冗談めかして言われてしまった。「マスクしなくていいの」と。苦笑いして誤魔化し、さっさと退散した。

 「マスクを盗まれたんです!」ムキになって言う必要もあるまい。再び山を越え帰ろうとしたら、谷間にかかる電線に、一羽の猛禽類が佇んでいるのが見えた。トビよりはずっと大きい。そこへ三羽のカラスがやってきて猛禽類に攻撃を始める。何と理不尽な。思わず猛禽の彼に向って「がんばれ!」と声をかけた。しかし、哀れ、猛禽の彼は追い払われ、見晴らしのいい電線はカラスたちに乗っ取られたのである。
 楽園かと思われたこの地も人の世と変わらぬということか。険しいことだ、それでもどこかに−−、思いを巡らせていると、ビシャッ、音を立て目の前に何かを浴びせられた!フロントガラスが白く汚れる。慌てるなかれ、これくらい緊急事態とはまだいえない。

 白い汚れは鳥類の糞だろう。匂いはないし洗えばすぐ落ちる。ただ量が尋常ではない、フロントガラスを三分の一ほど覆っている。犯人は誰か、カラスか、逃げた猛禽類か。鳥類という事だけは確かだ。
 洗浄液を噴き出しワイパーでフロントガラスを拭う。端に追いやられた白い汚れが一つの直線となり、目の前で滴り落ちていく。ゾッとするような眺めだった。
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