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2018年03月04日13:48

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〈色眼鏡〉の奥の思想と「生きられた思想」 ―― 山本芳久『トマス・アクィナス 理性と神秘』


とても評判のよい本だが、私はそこまで高くは評価できない。
たぶん、私がカトリック信者でもクリスチャンでもないからであろう。

本書は、「キリスト教最大の神学者」と評されることもある、中世の神学者トマス・アクィナスについての入門書である。
トマスは、ギリシャの博物学者アリストテレスから多大な影響を受けた人らしく論理性と体系性を重視し、キリスト教最大最長の神学書である『神学大全』(未完)を書いただけではなく、それ以外にも膨大な著書を残した、およそ彼をして論ぜざるものなしといった、超人的な学者であった。

もちろん、トマスは「宗教改革以前」の人であるから、カトリック、プロテスタントを問わず今も多大な影響を残している神学者だが、特にカトリックの方で重視された人物だということは知っておいた方がいい。
トマスは、生前の素晴らしい業績の一部は一時「異端」認定されたことがあるものの、後には、トマス神学をカトリック神学の中心に据えると「公会議で決定」されたこともあったほど、重要視された神学者だ。その時期、カトリック教会の「反近代的反動」が強まっていたため、今でもカトリック保守派にとってトマスは最大級の重要神学者なのだが、トマス自身は決して保守的神学者というわけではなかったというのは、「歴史の皮肉」と言うべきかもしれない。

さて、著者は本書でトマスを論じるスタンスとして、本書冒頭でトマスの『愛のあるところ、そこに眼がある』という言葉を引いて、次のように書いている。


『 「愛のあるところ、そこに眼がある(Ubi amor,ibi oculus)」。これはトマス・アクィナス(一二二五頃〜七四)の著作のなかに見出される有名な格言である。この格言は、「恋は盲目」の正反対の意味と考えると分かりやすい。愛しているからこそ見えてくる物事の深層というものがある。私だけが知っているあの人の本当の姿、長く聴き続けてきたからこそ見えてくるようになった好きな音楽の本当の魅力。この世を生きている限り、誰であれ、そうした仕方で深く愛する何かを有しているだろう。
 書物を読む、ということに関しても事態は同様だ。愛読し続けていくことによって初めて見えてくる書物の魅力がある。単なる情報収集や暇つぶし、何らかの技量を身につけるためのハウツー本、そのような読書ではなく、読むこと自体が人生の最も豊かな時間となるような、そういった読書の経験を与えてくれる書物、それが「古典」と呼ばれてきた書物である。
 トマスの『神学大全』は、そのような古典の一つだ。(略)
 この小著で、膨大な著作を残しているトマスの思想体系のすべてを語り尽くすことは不可能だ。本書において試みたいのは、二十年以上にわたってトマスを愛読してきた著者の「愛という眼」に映ったトマスの姿を、ありありと読者に伝えることである。』(「序」より)


本書は、著者のこうしたスタンスをよく反映して、得てして無味乾燥な紹介になりやすいトマスの魅力をたいへんよく伝える、優れた入門書となっている。したがって、この点で本書が好評を得るのは当然のことだ。

しかし『愛のあるところ、そこに眼がある』とは限らないのが、この現実の世界である。
当人は、それを「愛」だと思っていても、それは「恋(は盲目)」に過ぎなかったり、しばしば「妄執」であったりもするからこそ、キリスト教は「愛の名においての、血みどろの歴史」を刻んで来もしたのである。

著者の「愛」が最大に発揮される点は、トマスの、そして自身の「信仰」に対してである。
言い変えれば、それは「わが神」に対する「愛」。―― それだけは、決して疑われない。

本書の構成を大雑把に言うと、前半でトマスの「理性尊重主義」という特徴の強調解説、後半ではトマスの「信仰の必然性」を強調し「理性と信仰の両立は、矛盾ではない」と説明する、というものだ。

言うまでもなく、前半のトマスの「理性尊重主義」の説明は、さほど困難なものではない。よほど石頭な保守主義者でもないかぎり、理性的で論理的であることを否定的に評価する者はいないだろうし、まして非クリスチャンの読者であれば尚更である。
だから、問題となるのは、後半の「理性と信仰の両立は、矛盾ではない」の説明なのだが、ここで本書は、そのカトリック的限界を露呈して、お得意の「ダブルスタンダード」的なレトリックで、読者を煙に巻く説得術に頼ってしまう。


『 「信じる」という行為を、我々は、何か特別な場面においてのみ立ち現れてくるものとして捉えがちである。この宗教を信じていいのだろうかとか、このうまい投資話を信じていいのだろうかというように、人生の大きな岐路で決定的な決断を迫られたときに直面するのが「信じる」か「信じない」という選択だと考えがちだ。トマスがこのテクストにおいて為しているのは、「信じる」ということが、そのような特殊な場面においてのみではなく、人間の共同生活全体において極めて基本的で不可欠な役割を果たしているという事実の指摘である。
 「人間の共同生活においては、一人の人が、自分では充分ではないものにおいては、他の人を自分自身のように用いることが必要である」とトマスは述べているが、我々の生活において、自分だけで充分だというものは、極めて限られていると言ってよいだろう。生きていくために必要な食料にしても諸々の道具にしても、自分だけで充分に用意できるものなどほとんどないと言っても過言ではない。
 そのなかでも、とりわけ自分だけでは充分ではないのは「知識」である。特に現代のような情報社会においては、生きていくために必要な知識のうちの大部分を我々は他者に依拠している。我々が直接的に経験して知っている事柄というのは、この社会のなかのごく一部の事柄にすぎない。新聞やテレビやインターネットを通じて触れる情報が、我々のこの社会についての認識の大半を形成していると言っても過言ではない。我々は、いわば、これらの情報を「信じる」ことによって社会について「知っている」のだ。ときに我々は、あるニュースが間違っていたとか、誰かが意図的に流した嘘の情報に基づいていたという事実に後から気づかされることがある。そうすると、我々は、嘘または誤りを信じてしまっていたことに気づく。
 だが、時に嘘や誤りを事実として信じてしまうことがあるとしても、それを防ぐために、他者が伝えてくる知識や情報を全く信じずに、自分が直接的に経験して知っていることや、論理的に必然的な推論に基づいた数学的真理のようなものしか認めないとしたならば、我々は、この世界について極めて断片的で一面的な知識しか持てないことになってしまうだろう。』(P113〜114)


言うまでもないことだが、『他者が伝えてくる知識や情報』を全く信じないことなど出来ないはしない。だが、『他者が伝えてくる知識や情報』を信じたとしても『この世界について極めて断片的で一面的な知識しか持てないこと』には、何の変わりもない。
例えば『神学大全』のような膨大な書物を繰り返し読んでいるような人は、その分「他の書物が読めない」のであり、その部分の『他者が伝えてくる知識や情報』は得られていない。――これが、冷厳な現実なのだ。

長々と引用したが、上の引用部分だけでも、読む人が読めば、本書の限界は明白だろう。
なぜなら、ここで語られていることは、あらゆる宗教宗派の勧誘者が口にする「凡庸な決まり文句」でしかないからである。

曰く「貴方は、宗教なんてあやふやなものは信じられない、自分はもっとリアルな現実を堅実に生きるんだと言うけれど、その貴方だって、自分では確認しようのないものを信じているからこそ、生きていけるんですよ。例えば、貴方はどうしてテレビが映るか説明できますか? それが出来たとしても、電気や電流といったものの実在をご自分で確認しましたか? それを確認せずして信用しないことには、テレビがなぜ映るのかの説明も、無根拠なお話にしかなりませんよ。見たことも確認したこともない電気や電流を信じ、テレビを不思議だと疑いもしない貴方が、どうして信仰だけは、やったこともないのに信じられないと言うんですか? それって単なる偏見ではないのですか?」


『 宗教的な信仰についても話は同様だ。信仰という在り方にはどうしてもある種の不完全性がつきまとうが、同時に、そうした不完全な信仰という在り方によってこそ近づきうるこの世界の真相がある。』(P182)


「だから、怖れることなく信じてご覧なさい。そうすれば、信じる前には想像もできなかった世界が開けてきますよ。そう、信ずべきものは、まさに神なのです。他のものは信じなくても、神だけは信じるべきです。もちろん、貴方がこの信仰を実践してみて、私の言葉が嘘だと思ったら、その時は止めたらいい。そんなことはあり得ないと私は確信してるから、あえて言いますが、結果が出なければ、その時は止めたらいい。初めから疑って、試しもしないというのは、単なる臆病怯懦なのではないですか?」

――たいがいはこのように説得されるのだが、それで「じゃあ、いちど試してみるか。結果が出なければ止めればいいのだし」などと思ったら、貴方はおしまいである。

宗教というのは「これだけやったら必ず結果が出る」などという「客観的な基準など無い」のだから、いくら一生懸命やったところで結果が出なければ「貴方は心の底から信じていないからこそ、空転して結果が出ないのだ」と言われるだろうし、そうした「宗教の論理」を内面化してしまうと、次からは自分で「私は、まだ信仰心が足りず、迷いがあるから、結果が出ないのだ」と、結果が出ない理由を自ら捏造してしまい、結果の出るはずもない信仰の底なし沼に、自ら沈み込んでいき、二度と抜け出すことが出来なくなってしまうのである。

このように、前半で「トマスという神学者の美点」を、一般人をも納得させるほど上手く紹介しながらも、本書は後半で「凡百の宗教書」のレベルに堕ちてしまう。
トマスを紹介しようと思えば、「信仰の部分」を避けて通るわけにはいかないのだが、その説明を「理性と信仰の両立は、矛盾ではない」という「宗教の論理」の側に立って説明してしまうという、その明白な「党派性=客観性の欠如」において、本書は「学術書」としての価値を、半減させてしまうのである。

そもそも、『書物を読む、ということに関しても事態は同様だ。愛読し続けていくことによって初めて見えてくる書物の魅力がある。』という言い方は、きわめて「欺瞞的」だ。

たしかに『愛読し続けていくことによって初めて見えてくる書物の魅力』があるというのは事実だ。しかし、その「愛」、著者の肯定した『偏愛』(「序」)をもって書物を読むのならば、それは「過剰解釈」という問題を惹起する可能性も、当然ある。

記号論学者で、中世キリスト教修道院を舞台にしたミステリ小説『薔薇の名前』を書いた、カトリック信者だが世俗の人であるウンベルト・エーコも、その著書『読みと深読み』のなかで、この「過剰解釈」の問題を論じている。

小説は「読まれるもの」である。読者なしには、小説は成立しない。それは存在しないに等しい。
小説作品とは「テクストと読者の接触面に生成するもの」だから、小説の「解釈は一様ではない」。ある読者には「喜劇」と読めるテクストが、別の「悲劇」だと読めてしまう。これは、どちらか一方が正解で、他方が誤読だということではない。読者によって「読み=解釈」が変わるのは当然なのである。だから「読者の数だけ、読みはある=読者の数だけ、作品はある」という意見は、あながち間違いではない。
しかし、では「あらゆる読みは正しい=誤読は存在しない」のかと言えば、そんなことはないと、エーコは考える。

常識で考えれば、これは「当たり前」の話である。しかし、ならば「無数に存在する多様な解釈」は「いずれも同等に正しい」などというお気楽なことは言っていられなくなるのではないか?
むしろ、あらゆる解釈は「それぞれ個性的に、誤った部分を持つ解釈」であり「完全に正しい読解などない」という方が、より正確な理解なのではないかということになる。

ならば、いかに努力し自制して「客観的」に読もうとしても誤ってしまう「読書」という、意外に困難な営為において、『偏愛』を肯定してしまうような「自堕落な態度」など、まったく信用ならないと言っても、決して過言でないことは明らかで、そうした読書の大半は、あるいはすべては「牽強付会な論理やレトリック」を弄ぶ「過大評価(や過小評価)」にならざるを得ないのである。

そして、事実、本書はその様なものになってしまっている。

著者がカトリックなんだから、カトリックの信仰が正しいと訴える「党派的」なものになってしまっているのは仕方がないじゃないか、という意見もわからないではない。
しかし、それならば、ありがちなレトリックで読者を煙に巻いて党派的勧誘をするようなことはすべきではない。
神がその読者を召しているのならば、著者が小手先の技巧など弄さずとも、読者は正しく神のみもとに赴くはずだからである。

私が、このような「宗教書」において、もっとも嫌悪させられるのは、読者に「信じろ」と説いている著者自身の、心から信じているのかを疑わせてしまうような、その「世俗的な欺瞞的身振り」なのである。


『 トマスは、当時のラテン・キリスト教世界の多くの知識人と同じように、ヘブライ語もギリシャ語も読むことができず、旧約聖書も新約聖書もアリストテレスもすべてラテン語訳で読み、註解を加えている。だが、キリスト教神学と哲学の伝統の双方を熟知しているトマスが残した註解書には、ヘブライ語やギリシャ語に堪能な現代の註解者たちによる註解には見受けられないような洞察が数多く示されている。これは、哲学や神学における「読解力」とは何であるのかを我々にあらためて突きつける興味深い事実だと言えよう。』(P36)


そういうことなのだ。いかに「専門的知識」を持っていようと、「現実を直視する」「対象を突き詰めて考察する」ということは、容易に出来はしない。『哲学や神学』に限らず「読解力」とは、その人の「生き方」そのものを反映するのだ。
それは、誰にでも出来る「こうなのだ」「こうでなければならない」などという「口舌」ではなく、「生きてみせる思想」なのだ。
真の「読解力」というものは、信仰と同様に、生きられたところにこそ現れるものなのである。

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