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2018年02月23日16:20

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憎まれた「論理性」の尊厳 ―― オスカー・クルマン『霊魂の不滅か死者の復活か』

非常に論理的で面白かった。キリスト教神学の本では、むしろ例外的なタイプかもしれない。

「霊魂の不滅」とは、元来ギリシャ的観念であり、「死者の復活」をその教義の根底とするキリスト教とはまったく別物のはずなのに、実際には、それがキリスト教の歴史を貫いて混同され続けてきた。
―― と、このように論ずる、神学的問題提起の書である。

非クリスチャンながらキリスト教の研究をしてきた私などにも、何となく違和感が感じられていた部分の正体をずばりと指摘し、それを論理的に解明してみせた本書は、なるほど説得的である。

だがしかし、醒めた言い方をさせてもらえば、キリスト教の根拠文献としての「聖書」自体が、もともと論理的整合性にとぼしい「合冊的書物(文集)」なので、それを根拠にした論理的説明には、おのずと限界があり、結果として本書は、多くの「党派的キリスト教徒」を説得しきれないものになっている。

もちろん著者が悪いのではなく、キリスト教そのものが元々「非論理的」なのであって、論理的な説明が仕切れないのは、理の当然なのだ。

また、だからこそ、党派教義に忠実な他のキリスト教理論家の著作というのは、いかに論理的な見せかけを凝らしていようとも、根本的なところで、必ず非論理性を抱懐しているのである。

その点で本書は、論理的には語り得ないものを、徹底して誠実に論理的に語ろうとしたところに「多少の無理」が生じるとともに、非論理的な信仰を良しとする、多くのキリスト教理論家からの反発をも招いた。

著者のこうしたスタンスは、「聖書」を信仰の根拠とするプロテスタント神学特有のものだが、著者の徹底的した論理性は、他のプロテスタント神学者からさえ反発を招いたし、ましてや「聖書」だけではなく、「聖伝(教会の聖なる慣習・伝統)」を「聖書」と同等か、もしくはそれ以上に重要視する、カトリックや東方教会には、当然のことながら、受け入れられはしなかったし、断じて受け入れてはならないものとして、排撃されたのである。

キリスト教のどのような党派にも属さないキリスト教研究者や非クリスチャンの読者には、本書は「論理的かつ誠実な理論書」として、大変に面白いものになっている。

しかし、そういう書物だからこそ、「理解するよりも信じよ」と命じるキリスト教信仰の世界では、かえって憎まれもするという事実こそ、外部の者が注目しておくべきポイントであろう。

信仰とは、げに怖ろしきもの。

その昔の「異端」とは、しばしば「論理的一貫性」に誠実にこだわったがために、教会の絶対権力に口答えし、抹殺されていった人々である。
プロテスタントのクルマンもまた、世が世なら「異端」の烙印を押されたであろうことは、想像に難くないのである。

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