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2018年01月05日00:06

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この時代の呼び声 ―― 『けものフレンズ』論

私は『けものフレンズ』という作品を、『宇宙戦艦ヤマト』から『機動戦士ガンダム』『新世紀エヴァンゲリオン』『魔法少女まどか☆マギカ』へと連なる系譜の作品、アニメ史において時代を画する、新たなメルクマール作品だと評価している。

だが、この評価を、少々大げさだと思う人も、きっといるだろう。

先に挙げた四作品に比べると、『けものフレンズ』は、いわゆる「すごい作品」という印象はない。高く評価するにしろ、例えばそれは『アルプスの少女ハイジ』や『赤毛のアン』といった名作アニメにも似た、極めて完成度の高い、いつの時代にも通じる作品、という感じがするのではないだろうか。

しかし、私としては、やはり『けものフレンズ』は、単なる「超時代的な名作」ではなく、時代と密接に関連して、この時代に出るべくして出た、歴史的な宿命を負った作品であると思う。

例えば、『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』『新世紀エヴァンゲリオン』『魔法少女まどか☆マギカ』が、単なる名作に止まらないのは、その時代に対する画期性があったからだ。
その時代に生まれるべくして生まれ、巧まずして時代のステージを更新してしまった作品。
その作品の前と後では、アニメというもののあり方が、どこかで決定的に変わらざるを得ない、そんな何かをもたらした作品。

「時代の呼び声」によって、時代の水底から呼び出されて来た作品。

そうしたものとして、これらの作品は、歴史的な時間の中で傑出した作品なのではないだろうか。

では、『けものフレンズ』の画期性とは何か?

作画ではないし、お話の新しさでもない。
お話としては、親友サーバルとの旅を通しての「かばんの成長譚」ということで、ファンタジーSF的な意匠にも関わらず、その骨格自体は、むしろ古典的なまでの、正統派物語だ。

それでも、この作品があそこまで支持されたのは、時代の求めたものが、そこに描かれていたからだろうと、私は思う。

では、そこに描かれていた「この時代が切実に求めているもの」とは何だろう?

私はそれを、みゆはんによるエンディングにも歌われている「いつもそばにいてくれる、かけがえのない友達」ではないかと思う。

『けものフレンズ』ファンはよく、この作品について「優しい世界」という言い方をするが、それを具体的に言い表せば、つまり形象化するならば「いつもそばにいてくれる、かけがえのない友達」ということになる。
決して抽象的な「優しさ」ではないのだ。

特別なことを話すわけじゃないけれど、一緒にいるだけで楽しくて、安心できて、元気になれる。その人肌の温もりを、気づかぬ間にいつも感じているような、そんな子供時代にはあり得た、親友。

しかし、この時代には、子供たちや若者も含めて、そんな親友が持てなくなったのではないだろうか。

そして、その象徴が携帯電話だ、というのは陳腐に過ぎようか?

携帯を介して、人と24時間繋がっていながら、しかし私たちはそこに安心感(安らぎ)や温かさを感じることが出来ないでいるのではないだろうか。
むしろ、私たちはそうした繋がりから切れてしまうことへの「怖れ」によって、強迫的に繋がりを維持しようとしているだけなのではないか?

そんな時代だからこそ『けものフレンズ』に描かれた、数々の仲良しペアに、私たちは憧れてしまう。

彼女たちは、お互いが好きだから一緒にいる。
殊更に好きだと言わなくても、好きな理由なんかわからなくても、好きだからいつも一緒にいるのだという安心感と信頼感が、二人の間には疑う余地もなく存在する。だから、彼らに不安は無い。

一方、私たちの現実は、こうしたものには程遠い。
今ここで友達として一緒にいても、それがずーっと変わらずに続いていくだろうという安心感が、たぶん今の私たちには無い。

いつかは別れが来て、そのまま疎遠になり、あとはやっぱり「独りぼっち」だという、抜きがたい孤独感こそが、この時代を生きる者の実感ではないだろうか。

『けものフレンズ』という作品を通して、たつき監督が描いたものとは、そんな「この時代の、半ば無意識的な感情と願望」だったのではないか。その意味で、たつき監督はまさに「この時代」を描いて見せたのではないか。
たつき監督は、私たちの孤独と夢を『けものフレンズ』という作品を通して形象化して見せたのではないか。

『けものフレンズ』が、単なる「かわいい」「楽しい」娯楽作品には止まらず、深いところで私たちの心を捉え、どうしようもなく「切ない作品」であり得たのは、そうした本質性によるのではないだろうか。

だから『けものフレンズ』は、単なる一過性のブームとして消費され、忘れ去られるような作品ではないのだと思う。

時代の無意識が求めた、時代の声としての作品。
私たちが求めて止まないものを、形象化して見せた作品。
その意味で、この時代とは切っても切れない作品。

だからこそ『けものフレンズ』は、歴史にその存在を刻む作品になり得ているのではないだろうか。

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【補記:傾福さんの世界とジャパリパーク】

上のような考察を経てみた場合、アニメ『けものフレンズ』という稀有な作品は、やはり「けものフレンズ」という素材と、たつき監督という「時代が生んだ才能」との、幸福な出逢いにあったのだろうと思う。

たつき監督には、間違いなく「この時代の孤独と夢(憧れ)」についての、強烈な感受性がある。
それを端的に象徴するのは、例えば小品「傾福さん」だ。

傾福さんがいる場所は、まるで「人のいない天国」のような場所だ。
ここには、傾福さんといつも一緒の友達である浮遊するエイ(浮遊霊?)しかいない。

普通に考えれば、寂しくてたまらないような場所だが、しかし傾福さんはエイと二人だけで十分楽しそうである。エイさえいれば、傾福さんはそれだけで満足であり、平気なようだ。

しかし、この特殊な状況に、たつき監督が感じている「この時代」が刻印されているように思う。

つまり、状況的には明らかに「孤独」なのだ。しかし、そこに「かけがえのない親友」が一人いてくれるだけで、すべてが救われるという状況だ。

しかし『けものフレンズ』とは違って、あまりにも象徴的かつ典型化された、この「傾福さん」の世界に、私たちは安らぐことができない。
私たちが「親友と二人の世界」に安らげるのは、やはりそんな二人が大勢いられるジャパリパークの世界であって、傾福さんの天上世界ではないようなのだ。

だから『けものフレンズ』には、たつき監督の才能だけではない「救い」が、たしかに加えられていた。
それは研ぎ澄まされた「親友と二人だけの世界」の先鋭さを緩和する要素だっただろう。そしてそれは、作品にとっては間違いなくプラスに作用した。

しかしまた、そのような、ある種の曖昧化、薄めることによるマイルド化に対する、たつき監督の不本意さもあっただろう。適当に緩いが故にハッピーに見える世界を、そのまま肯定することは出来なかったのだろう。
だからこそ、セルリアンが登場したのではないだろうか。

「傾福さん」のギリギリにまで突き詰められた世界には、もはやセルリアンは無用だった。
しかし「親友との二人だけの世界」が簡単に永続してしまいそうな気分にさせられる「ユートピア(存在しない場所)」としてのジャパリパークには、切れないはずの親友との繋がりを切ってしまうものとしての「不安」が、セルリアンという形で形象化されたのではないだろうか。
セルリアンに食われて、元の動物に戻ってしまうということは、もう親友と同じ目線で言葉を交わし合う友達ではいられなくなる、ということだからである(「かばんちゃんを返せ!」というサーバルの叫びは、あまりにも悲痛であった)。

なお、蛇足すれば、『けものフレンズ』以降の作品としては、最近アニメ化された『少女終末旅行』が挙げられるかも知れない。
私は、原作コミック第1巻を読んだだけで、アニメ版はまったく視ていないが、この作品の世界は「傾福さん」の世界と繋がっているように思う。


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